クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

節約家

道家華道家書道家、登山家と家が付く肩書きは数あるが、節約家というのはいかなる人だかよくわからない。しかしながら今もiPhoneの漢字変換で一発で出たので使う人はそれなりにいるらしい。

お金については本ブログでもいろいろ書き散らしたが、私にも一貫した考えがあるかというとかなり怪しい。そもそもお金を惜しむのが節約家だが、お金を貯めるのが好きな蓄財家やらお金を沢山持っている金満家が別にいて、みんな一体どれを目指しているのかわからなくなってしまう。金満家なら節約家にならなくてもいいが、金満家にも浪費家と蓄財家がいて何がなんやらわからない。普段100g200円の牛肉を買うのに迷いを生じ、98円の細切れ豚肉に飛びつくのに、時々居酒屋なんかで、一杯500円のビールの注文に躊躇のない自分は何だろうと思ったりする。ただ、1円でも安いものを求めて車で奔走する人は決して珍しくないので、この癖は自分だけではないと心を鎮めている。

 

お金に関して最も人に嫌われるのは慳貪である。しかも、金があってケチなパターン。お金がなくてケチなのは当然だからだ。

私が社会人になりたての頃は金銭感覚があまりなかった。これは浪費が酷かったのではなくその逆で、収入があるのにどのくらい使っていいかわからなかったのだ。結果、わけもなく苦学生のような生活を独り繰り広げていたのである。今でもその時とさほど変わったとは思わないが、少しその頃を思い出してみた。

 

その一 パンとピーナッツバター

会社に入社して最初の2ヶ月は同期の男と浦和にある2DKの部屋に押し込められた。短期間だからということで共同生活をさせられたのだが、この男と金銭感覚は全くと言っていい程合わなかった。毎日仕事が終わると、彼はパチンコに行き、定食屋で夕食を食べて帰ってきた。私は帰ってキッチンで米を炊き、野菜炒めなどを作ってもそもそ食べた。鍋や皿はあったので何も準備をする必要はなかった。

当時の私は自分がいくらもらっていていくらまで使ってよいのか全く分からなかった。朝食と昼食は節約のため食パンにピーナッツバターを付けて食べていた。それだけでは栄養失調になりそうなので、夜だけは野菜や肉も食べた。これを見て同室の男は「俺たちちゃんと給料もらってるんだよ!」と口酸っぱく忠告した。それでも頑固に食パン生活を続ける私を見て途中で諦めたのだろう。やがて何も言わなくなった。

結局この生活は2ヶ月くらいで終わり、2人ばらばらの赴任地に移った。その10年後に同室の彼はギャンブルに大いに祟られ、「今は君が正しかったと思うよ」という言葉を私にかけるのだが、本当に正しかったのかは今をもってわからない。

 

その二 エアコン

昨今は、猛暑日を記録するたびに「適切なエアコンの利用」とアナウンスされるようになった。かつては公立の学校でエアコンがなく、「クーラー病」になると言って暑さを我慢するように子どもたちに強制していたのは何だったのだろう。

浦和の共同生活が終わり、最初に赴任したには広島だった。3LDK駐車場付で月額5万6千円也。1人で暮らすには無駄に広く、その代りエアコンはなかった。赴任したのは7月だったが、いつまで住むわからない部屋に業者を呼んで工事をする気になれないのでそのままにしていた。幸か不幸か仕事が忙しく、日中は部屋にいない。炎天下での現場仕事もあったので、夜帰って窓を開ければ十分に涼しく感じられた。

平日はいいのだが、休日を乗り切る方が困難だった。当時の仕事には緊急出動のための当番というものがあり、連絡から30分以内に顧客宅へ駆けつけるため、休日にもかかわらず遠出ができないという日があった。休日なので会社には出たくないが、部屋は猛烈に暑い。水を飲んで水浴びをして凌いだ。

 

その三 米

小学校の授業では必ず「コメの消費量低下」というものを取り上げる。そして「日本の食料自給率が...」と話が続くが、結局どう教育したいのかわからない。もっと米を食えということか。食料自給率を下げるパンや麺類を食べるなということか。「はっきりせい!」と思うが、はっきり言うと製粉業界などから抗議が来そうなのでごにょごにょと誤魔化しているのだろう。

閑話休題。1人暮らしを始めると米を食べるのが最も経済的だとわかった。5㎏で2000円程度だが炊くと2倍以上になる。炊くのにかかる時間だけがネックだが、少量の場合は炊飯器ではなく鍋で炊けば30分以内に炊き上がる。スカスカのパンに比べれば腹持ちもいい。

当初はパン-ピーナッツバター生活をやっていたが、広島では米生活に切り替えた。そしてその米もできるだけ安いものを選ぶようになった。近所にあった大型スーパーは安売りを目玉にしており、いつもごった返していた。いつも人でごった返していて、客層も安売りに見合った貧層な顔つきであり、私もその一員として亡者の群れのように列に連なっていた。

米は10㎏で買っていた。当然5㎏で買うより安いからだ。2000円少々だったと思う。とんでもなく安いのだが、炊いた翌日には安さの理由を思い知ることになる。臭いのだ。米がこんな臭いを放つとは知らなかった。新米の時期になっても新米の文字が入らないところを見ると古米か古古米が入っているらしい。価格には理由があることをその時悟った。

ちなみにそのスーパーではステーキ用牛肉が100g98円だった。5%の税込みで98円だ。今となっては何の肉だったのか知るのが怖い。

 

テレビや雑誌の話題でいつの時代も尽きないのは健康と節約の話題だ。こんな私だが、節約に関するテレビ番組は正直見たくない。自分の至らなさを指摘されるようだし、あまりにみみっちい節約術を紹介されると、「まずはテレビを消さんかい!」と突っ込みたくなるからだ。

私の節約について書いたのはただ愚かな自己満足を嗤うためであって、「こんなに節約しているからこんなに貯金があるのです」と誇るためではない。そう、節約家の節約は所詮自己満足に過ぎないのだ。

タネと『第一阿房列車』

某新聞社の会社説明会で社員、つまり新聞記者がこのようなことを言っていたらしい。

「新聞記事はいい取材が全てなんです。美味しい牛肉はいろいろ味付けしなくても焼いてレモンと塩だけでも美味しく食べられます」

新聞という媒体は文字数が限られているし、文章力で補うことが難しい。この記者は素晴らしい取材がすべてだと言い切った。

北大路魯山人の『料理王国』を読んだら、奇しくも食通で知られる北大路魯山人も料理は素材がダメならいかに料理人が技巧を凝らしても無駄と述べている。料理人は素材の味を引き出すことはできるが、味を作ることはできないというのだ。文章のタネと料理が同じとすれば、話題と取材の吟味がすべてだと言える。

 

近頃『大貧帳』に始まって内田百閒にはまっている。内田百閒は東京帝国大学でドイツ語を学び、士官学校や大学でドイツ語講師として勤めている。さらに夏目漱石の弟子として芥川龍之介鈴木三重吉などとも交流のあるいわゆるインテリである。ただ、文章、特にエッセイは非常にユーモラスで、思わずクスりとくる笑いに満ちている。「クスり」というのがミソで、文体はあくまで真面目なので笑いを狙って書いているとは思えないのが百閒先生の持ち味だと言える。

阿房列車』は用もないのに列車に乗って旅をするという旅日記である。特に目的地もないし、各地の観光名所を行くわけでもない。石川啄木の故郷があると言っても素通りである。そのくせ国府津駅御殿場線に乗り遅れたと苦情を言っている。その時の目的地は沼津で、東海度線でも行けると言う駅員と、用もないが御殿場線に乗りたかっただけの百閒先生との会話は全くかみ合わない。

今でいえば「乗り鉄」といった具合だが、列車については汚いとか寒いとか言いたい放題で、どこまで行っても頓珍漢な旅をひたすら綴っている。ハッとする景色や旅情を感じさせる描写があるかと思えば、夜の列車で車窓から何も見えないと書いてあったりで、やはり何も目的がないことを再認識させられたりする。太川陽介蛭子能収が出演している「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」というテレビ番組が人気を博したが、あちらはあくまでミッションである。確かにミッションがあればそれを軸に出演者の場面が展開するし、視聴者も最後は達成できるかどうかに注目して見つづけることになる。テレビと言うものの性質を考えれば、用もなく電車に乗っている姿を撮っても番組にならないのだが、『阿房列車』はそんなことは百も承知とばかりにメディアのタブーを犯している。借金までしてひたすら列車に乗り、どこにも寄らずに帰ってくる。列車の移動するという本分をも無視した行為をひたすら繰り返している。

これが目的のある旅であれば全く違った風情になっただろう。『東海道中膝栗毛』での弥次喜多の目的はあまり知られていないがお伊勢参りである。ただの滑稽旅と思いきやこれまでの人生を振り返っての厄落としという重いテーマが底流にはあるのだ。それに対して『阿房列車』は目的がないことをテーマにしている。この時すでに内田百閒は文筆家として知られており、「ヒマラヤ山系」と呼んでいる編集者を伴って各地で接待を受けるが、これは本来の旅の目的ではない。名所・旧跡はあっさり見捨てるのだが、書くとなれば塩も付いていない握り飯を渡されたとか風呂の湯が熱いというだけのことも書く。シャツを裏返しに着る、ボタンを一つ掛け違えているだけで世界はたちまちユーモアに満ちていくことをこの本は示している。

 

例え話の上げ足を取るようだが、冒頭の新聞記者は牛肉と言えば「焼く」しか思いつかないのだろう。彼あるいは彼女にとって「いい肉」とは霜降りのヒレ肉であり、煮込めばうまく食べられる固い脛肉やスジ肉には目もくれないで記事となる話題を追いかけている姿が想像できる。もちろん新聞と言うものの特性を考えれば、じっくりと素材を煮込むような時間はないし、むやみに味付けはできない。一般大衆にとって重要なこと、興味深いことを取材するのが記者の務めというものだろう。

しかし、私は無数に転がる路傍のタネにこそ世の中に彩りを添える花を咲かせる力があると思うのだがどうだろうか。

第一阿房列車 (新潮文庫)

第一阿房列車 (新潮文庫)

 

 

スマホないない記と『砂の女』

9月某日、某所に愛用のiPhone5s君を置き忘れてしまった。もう4年以上使っていて、電池の減りも早くなっており、充電させてもらっていてそのまま忘れてしまったのだ。電車に乗って、隣の女性がせわしなくスマホを操作するのを見て気づいた。

それまで文庫本で安部公房の『砂の女』を読んでいたが、iPhone君と離れると少し落ち着かなくなる。朝夕の食や仕事には差支えないが、親戚・友人知人には連絡が取れなくなる。iPhone君なしに諳んじることのできる電話番号は実家・職場・iPhone君本人だけで何の役にも立たない。なにより置き忘れたところに連絡が取れないのでは回収もままならないので困った。「コマッタ、コマッタ」と言っているといつの間にか身の丈3寸くらいの電子機器に束縛されてしまっている自分に気づいた。つい数日前に中高生のスマホ依存という記事を見て嗤っていたが、自分自身もその一味となっているようで何とも言えず悔しい。悔しいのでいったんiPhone君の回収方法は考えないことにした。いざ手放すとスマホを使っている人の動きが妙に気になるようになった。

 

今は電車に乗ると、大概スマホを使っている人と寝ている人、本・新聞を読んでいる人、知人としゃべっている人のどれかに該当する。休日は電車に乗って座席に座るや否や、早抜きガンマンのようにスマホが滑り出し、撃鉄を引くように起動して何かを始める。見るも鮮やか。最近はiPhoneも大型画面になっているが、よく片手で操作できるものだ。私は5s君でも片手操作は無理だ。その調子で鍛錬を続ければみんなマギー司郎くらいにはなれるだろう。

では素早く取り出したスマホで何をするかというと、大抵がネット記事を読む、ファッションアイテムを調べる、知人とチャットをする、音楽を聞く、ゲームをするといったところだろう。どれも不要不急の用事ではないが、スマホを触っていないと落ち着かないようだ。

文庫本の中では男が新聞が欲しいと言っている。

 

新宿駅に降り立ち紀伊国屋に向かった。地上から行ったことはあるが、地下から行くのは初めてなので、今一つ方向がわからない。現在地がわからなくなったのでiPhone君に頼もうと思うが、忘れてきたことに気付く。仕方がないので観光客と見られるザックを背負った欧米人のでかい背中の隙間から壁に掲示されている地図を見る。何となく方向はあっているようなのでそのまま進む。

何とか無事に紀伊国屋を見つけて文庫本を一冊買い、今度はJRの改札を探す。標識の指示に従って、飲食店や百貨店の入口を見ながら右へ左へ行くと、人だかりがしている広場があって、その先が改札口だった。横浜方面の電車は5分後で、その次はさらに15分後だ。スマホがなくても都心では何とかなるものだ。

 

電車に乗ると今度はスマホを振りかざす人が少なかった。考えてみるとあの数万円もする電子機器を一人一台持っているのだから恐ろしい。新入社員なら手取り給料の半分以上には当たるし、食費だけなら3ヶ月分以上に相当するだろう。

座席に座り、再び『砂の女』を読み始める。男は砂の窪地にある家に閉じ込められ何とか脱出を試みている。砂しかない地獄。男に求められているのはひたすら押し寄せる砂を掻いて部落が砂に埋没するのを防ぐだけ。砂を掻かなければ水も与えられないが、逆に砂を掻けば食料も水も配給され、最低限生きることはできる。男は新聞を手に入れたようだが、記事の見出しを見てどれを欠いても問題ないと悟り、結局は読まなくなった。

 

地下鉄につながる通路を下りていると、ついさっき電車が着いたらしく、たくさんの人が上がってきた。短いエスカレーターに乗っている人のうち、10人に5人はスマホを手にしている。このわずか10秒程度に何を見ているのだろう。自分の手元にないだけに他人が当たり前のように液晶を覗き込む姿は余計に奇異に思えてくる。

地下鉄に乗り込み再び『砂の女』。男は短期的な砂地からの脱出をあきらめ長期的な計画を考えるようになった。ただ、脱出してから何をするのかの考えはないようだ。一緒にいる女はただ当たり前にように砂を掻き、内職仕事でラジオと鏡を買うことを夢見ている。男は脱出するためにラジオを買うことに協力を始める。

今やチベットの奥地でも携帯電話が普及しているという。物語の舞台が現代ならスマホを買うことになるのだろうか。

 

自宅に着いてさらに続きを読む。最初は男が砂の部落に閉じ込められ、脱出を試みるのに対して読んでいるこちらも力が入ったが、徐々に脱出する必要があるのだろうかと思い始めた。この男はこの砂の地獄から脱出して自由を手にしてもその自由をどう使うかわからないのだ。確かに砂しかない世界に閉じ込められているが、外に出ても何も希望らしいものがない。やがて男は脱出のために烏を捉える罠を作り、それを「希望」と名付けるが、脱出することそのものが「希望」であって、特に脱出後の未来に希望がないように思える。

男が砂以外に何も「ない」ことに不満があるとすれば、女はラジオと鏡が「ある」ことを望んでいる。物語の最後に男は思いがけず脱出するチャンスを手にするが、脱出を放棄する。誤読かもしれないが、男は砂地でも清水を得ることのできる独自の溜水装置を開発し、部落の人々を驚かせるという些細な希望を手にし、何も「ない」外界への執着が薄れてしまったと私は解釈した。現代の都市生活者は今「ある」ものがなくなることに強烈な不安感を持つが、実際には砂地の昆虫のように何も「ない」ことには徐々に適用できる。そして、何かを手に入れたいという「ある」状態に対する方が強い欲求として生まれてくる。

結局iPhone君は無事救出してもらい、置き忘れから40時間ほどで帰還した。手元にわずかの間だけiPhone君がいなくなって、何かが「ない」不満と若干の不安を味わったわけだが、起動してみると、実家から姪のかわいい画像が送られてきていただけで、不要不急の用などなかった。

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クボタちゃん

その飲み会も主役は彼女だった。

ここでは仮にクボタちゃんとしておこう。24歳。背は150センチ少々と小柄だが、二重瞼の大きめの目に色白の肌、肩より少し下まで伸ばしたストレートの栗色の髪、やや幼い顔立ちで、いわゆるかわいい女の子を想像してもらえれば間違いない。

飲み会の最初は明後日から産休に入る女性の子どもにつける名前についてだったが、酔いが回ってくるとクボタちゃんはいつもの調子で話し始めた。

 

クボタ「この夏は京都に行ったんですよ」

私「この時期暑かったんじゃない?」

クボタ「暑かったっスよー。死ぬかと思いました。それで、一つだけ願いを叶えてくれるっていう『ドラゴンボール』みたいなお地蔵さんがある寺に行きました」

酔うとやや言葉遣いがぞんざいになるのはいつものことである。

クボタ「そこのお地蔵さん、日本で唯一ワラジを履いてるんです。そこ年中鈴虫鳴いてるっていうで行ってみたんです」

嵐山にある鈴虫寺に行ったらしい。

クボタ「そこでお寺の人に話聞いて『いい人に出会えますように』って願ったんです。そうしたらお地蔵様がやって来て願いを叶えてくれるらしいんです」

一同「へー!」

クボタ「そしたら一週間後に合コンがあって、ちょっといいかなーって思う人がいたんですよ!」

お地蔵様もずいぶん俗っぽい願いをされたものだ。と言ってもクボタちゃんにとっては切実な願いで、ここ2年の彼女の至上目標であるとともに飲み会の話題の大半を占めている。

クボタ「これはお地蔵様の導きに違いないって思ったんです!同じ山形出身で、色白で痩せててイケメンで」

女子A「いいじゃない」

クボタ「でも、彼年下なんです」

女子A「いくつ?」

クボタ「一つ」

一同「えー!いいじゃない一つくらい」

女子A「一つくらい誤差だよ」

クボタ「お地蔵さん、きっと歩いて来るでしょ。新幹線なんて乗らないだろうし。歩いて来るのに一週間は早過ぎるし、きっとこれはフェイクかなって」

クボタちゃんはハイボールを一口飲んだ。彼女は小さな体躯に似合わず酒豪であるが、同時に酒に飲まれることも多い。飲み会後の寝過ごしは日常茶飯事で、東海道線は熱海から宇都宮まで制覇している。住んでいるのは横浜なのにどういう状況になったか想像もつかない。

クボタ「年はそうなんスけど、なんか軽いっていうか。LINEでやり取りしてて、突然『帰宅!』ってくるんですよ。お前が帰ったなんて知らんって」

23、24くらいのノリなら普通だろう。ただクボタちゃんには許せないらしい。合コン三昧の軽いノリの子と思いきやお地蔵様にお願いしたりと古風なところがあるのだ。

クボタ「合コンでは最初は清楚とか言って持ち上げられるんスけど、料理しないって言ったら男が一斉にドン引くんスよ。あれは周りの女が持ち上げて落とす策略ですよ」

女というのは怖いものらしい。ただ、料理なんて「頑張ります!」とかかわいく言っておけばいいのに嘘を付けないのが彼女らしい。

クボタ「最近考え方を変えなきゃいけないなーと思ってるんです」

さすがの合コン三昧娘も少し疲れたらしい。そもそも彼女は条件ありきで男を探している。条件とは顔、金、性格の順。合コンで好条件の男が釣れると本気で思ってるのだろうかと感じていたが、さすがに姿勢を改めるようだ。

クボタ「今までは顔が第一条件だったんですけど、顔と金が同じくらいに来てます。なんなら金の方が上で、やっぱ金かなーと」

全然反省しとらん!


クボタ「横浜中華街の占いでは25歳で出会って28歳で結婚って言われてるし、お地蔵様には年内ってお願いしてるんでこれから出会うと思ってます」

そう言うと、彼女は少し不揃いな前歯を見せて笑った。

健康社会

電車に乗るとフィットネスジムやエステの広告ばかり目につく。酒もプリン体と糖質オフ。現代日本を「一億総◯◯」というならば、「一億総健康至上主義社会」とでも言おうか。企業などでも唐突に「健康経営」なんていうことを言いだすようになった。

誰しも病気がちなのは嫌だし健康増進は大賛成だ。ただ、今まで酒量や喫煙量を誇って不健康自慢を飲み会の話題にしていた役員や管理職が突如「健康教」に宗旨替えして、禁煙やメタボ撲滅を訴えるのはいささか滑稽に見える。それにお上から「日本国民は心身健全にして国家に寄与すべし」と言われると、なんだか健康ファシズムのようで心理的な反発を覚えてしまう。さらにこの「健康」をネタに春の筍のように芽を出す新商品やサービスには半畳入れたくなることがある。

 

なんだかんだ言っても健康であることに越したことはない。ただ、太り過ぎも痩せすぎもよくないのだが、現代は太り過ぎを忌避する商品に溢れている。健康診断の項目には「二十歳の時から5キロ以上の体重変化はありますか?」なんていう質問まであるが、明らかに太り過ぎ警戒と見て取れる。

会社でひところミーティングとなれば「黒烏龍茶」と「特茶」がマンハッタン島のように林立することがあった。部署全体が小太り、小太り、大太りといった具合だったこともあるが、みんなが同じようなペットボトルを携えてぞろぞろ歩く様は少し異様だった。こうなるとひねくれ者とすると本当に効果があるのか疑問に思うし、少し茶化したくなってくる。

黒烏龍茶」の効能を見てみよう。「食後の脂肪吸収を抑える」とある。抑えた分の脂肪がどうなるのか、そのまま排出されるのかはわからないが、これを読む限り食事中か食後すぐしか効をなさないような気がする。何も食べていないミーティング中などに飲んで意味があるのだろうか。まさに「机上の黒烏龍茶」になってしまっている。

人気の「特茶」はどうだろう。こちらは「脂肪分解を助ける」ようだ。こちらはいつ飲んでもいいらしい。ただ、あくまで「助ける」だけなので、痩せるかどうかは自助努力ということになる。皮肉な言い方になるが、自助努力できるくらいならさほど肥満に悩むことはないし、このような補助食品に頼らないような気がする。どの健康食品の注意書きにも書かれているが、「適切な食事と運動」が大切ということは変わらないらしい。

同じ部署に「特茶」と甘い炭酸飲料を並べて飲んでいた後輩がいたが、ここまで一貫性がないとかえって特茶崇拝を嘲笑うかのようで面白い。もっとも彼はまるで十代の女子のように、海で水着を着るためということを理由にせっせとフィットネスジムへ通っていて、痩せることについて熱心ではあった。

 

全然関係のない話なのだが、「世界ふしぎ発見!」のリポーター竹内海南江がある国で逞しい体つきの男にこう話しかけられたらしい。

「俺はBadな日本語のタトゥをしているぜ!これはどういう意味なんだ?」

「それは"Not economy"(不経済)という意味よ」

男は黙り込んでしまった。

現代日本において不経済の代表格は喫煙ということになる。年々増税され、健康面より経済面の事情で禁煙する人が多いらしい。

個人にとっては不経済だが、国家にとってはというとこれが厄介な問題になるらしい。『これからの正義の話をしよう』を読むと、日本ではないが煙草による経済的利益と損失について試算した結果、喫煙は国家にとって得となったそうだ。喫煙者が増えるとたばこ税が増収となり、たばこ産業も活性化し、雇用を生み出す。さらに喫煙者は寿命を縮めるので、高齢者となってからの社会保障低減に寄与する。トータルでは健康被害による損失を上回るというのだ。もし日本においても同じなら厚生労働省が進めている禁煙支援は他省の経済活性や増税政策と矛盾することになる。こうなると「人の命は地球より重い」とか「パパくさーい」とか言って喫煙排斥を訴えるしかなさそうだ。まあ喫煙者でなければ、傍で紫煙をくゆらされるのは迷惑なのでいくらでも禁煙政策を進めてもらえればいいのだが。

なお水着のためにダイエットに勤しんでいた後輩は、煙草を嫌う女の子と付き合い始めたことで禁煙をした。元々、元カノが吸ってる姿がいいと言ったから吸い始めただけで、好きでもなかったらしい。なんだか本人に意志がないようだが、彼にはダイエットも煙草も女の子に好かれるためなら随意に方針転換を行うという意味で一貫した方針があるようだ。

 

煙草とセットで考えられそうなのは酒だが、こちらは輸出品目にもできるのでどちらかというと寛容に見られている。しかしながら「メタボ」の一因という目を向けたとたん、ニコライ2世の脇に控えるラスプーチンのように見てしまう。

10年ほど前に食の安全についての講演で聞いた話。

「お酒を飲んで太るのではありません。つまみを食べるから太るんです」

近頃は何にでもカロリーが記載されているが酒類のエネルギー量は膨大だ。表示通りならビール1缶で1時間は歩かなくてはならない。しかし、その「食の安全評論家」によれば酒を飲んですべてをエネルギーとして摂取できず、かなりの分を排出してしまうらしい。人間の身体はアルコールランプのようにはいかないようだ。確かに呑ん兵衛なのに痩せている人によると、彼は飲むと食べないため、体形を維持できている。

ただ飲み過ぎは肝臓にはよくないのだが、痩せれば正義という風潮がどこかに漂っている。以前何かのテレビ番組で、「若手会社社長のAさんは接待の飲み会を利用して痩せました」などと喧伝していた。二日酔いで食べるもの食べられず痩せたのだが、もはや健康維持なんて地の果てにぶっ飛んでしまって痩せることが目的になっていた。


最近テレビを見ないが、マスコミは大衆に対して正義と悪のレッテルを貼って物事を判断させる癖を付けさせる気がする。しかし、目的もなく悪を懲らしめるだけの正義に意味はない。健康になるのも私たちが何かをするためであり、ただ長生きするために健康を目指すのは本末転倒だ。

先の後輩は今の彼女に嫌われないためにダイエットに励み、私は登山やマラソンをするために体重を維持している。

目的のない健康社会を目指すことに意味はない。一人一人が目的のない人生を目指さないように。

『大貧帳』と『紙の月』

週末は北八ヶ岳へ行き、鈍行で帰ってきた。茅野から中央線で八王子まで乗ると大概2回は乗り換えがあって3時間くらいかかる。最後の方はお尻のほっぺが痛くなって難儀だ。

そんなに辛いなら、特急「あずさ」に乗ればよいのではないかという声が降ってきそうだが、当然「あずさ」には特急券が要る。特急券にはお金が要る。金が惜しいのもあるが、払えないわけではない。では、なぜわざわざ私は鈍行列車で長距離移動をするのだろう。

 

お金について考えさせられる本を2冊立て続けに読んだ。内田百閒『大貧帳』と角田光代『紙の月』だ。

『大貧帳』は内田百閒のお金に関するエッセイ集である。内田先生は東京帝国大学を卒業し、いくつかの学校講師を兼務するというインテリだが、常に金欠だったようだ。しかし、このエッセイの中でなぜ貧乏なのかについての理由は最後まで明確にされていない。想像するに、収入の有無にかかわらず金を使い、あげく借金をし、借金の返済のために借金をする、ということを繰り返しているうちに、慢性的な金欠状態になったようだ。

しかし、「金がない。困った困った」と口では言いながら、逼迫した様子がない。破産するほどの過度な贅沢をわけでもなく、金がないからといって節制するわけでもなく、何とも言いようのない不思議な文章を綴っている。読んでいくうちに、お金がないというのは「天気が悪い」などと同じ自然現象のように思われてくる。現象だから恬淡として受け入れ、なければ借りて使い、できたら返しをひたすら繰り返している。まるで傘を開いたり閉じたりするように。

 

大貧帳 (中公文庫)

大貧帳 (中公文庫)

 

 

 

その後、いつもなら手を出さないであろう『紙の月』を読んだ。銀行のパート社員である主婦が、若い男と知り合うのをきっかけに顧客の金を横領し始める。最初はちょっと借りて返すつもりだが、散財と横領は徐々にエスカレートし、やがて破綻を迎える。物語は主人公の女とともに、その女を知る人々がそれぞれお金に翻弄される様も並行して展開されている。ストーリーそのものにリアリティーは乏しいが、金を弄び、弄ばれる人々の描写はなんとも巧みだ。

思わずうなってしまったのは、若いツバメと高級ホテルのプールで過ごすシーン。まだ二十歳そこそこのその男が太陽がパラソルからずれて眩しいとホテルのスタッフにクレームを付ける。時が経てば太陽は動くのだから、椅子を少しずれせばよいと、女は心の中で思う。それまで苦学生だった男の変化が生々しい。自分は客なのだから、そして金があるのだからこれくらいのことをさせても許されるという感覚。彼はそれまで金がないことによって縛られていた制約から解放された快感に浸りたかったのだろう。

登場人物はそれぞれがお金に翻弄される。お金を使う理由もそれぞれだが、軛から逃れた解放感と使ってしまったことによる罪悪感。毒と蜜を同時に味わううちにどちらの感覚も麻痺してしまっているように思える。

 

紙の月 (ハルキ文庫)

紙の月 (ハルキ文庫)

 

 

 

では、なぜ私はお金を使わず、鈍行でえっちらおっちら帰るのか。極度に自分に贅沢を許すことを恐れているのだと思う。生活水準は1度上げると下がらない。グリーン車ビジネスクラスのシートも1度使うとやめられなくなるという。私は1度でもお金の縛りから自分を解放した瞬間、元に戻れなくなることが怖い。『紙の月』の若者のように金の制約から解き放たれてた後、元の木阿弥になった時に再び自己規制をできる自信がない。お金がなくなるのが怖いのでなく、お金を使う感覚が麻痺してしまう方が怖い。

内田百閒のように「金は物質ではなく現象」と言える日が来るのだろうか。

 

ある週末、ジムでのボルダリングを終え、先輩の車で送ってもらっている途中、先輩が突然後部座席に座っているジュニアに言った。

「そっと後ろの車を見てみ」

ジュニアが言われた通りそっとリアガラス通して後ろをみると、「くくっ」と笑った。私も気になって振り返ってみると、そこには「お金がほしい」と書いてあった。 

キタヤツに来た奴

双子池がいいと聞いて行ってきた。先週は白馬でずぶ濡れにされて敗退したので夏山行の追試といったところである。とは言っても目的は双子池でまったりすることなので山友からは「北八ヶ岳でリベンジ?」というコメントを頂戴した。

単にまったりでは何なのでサブテーマを用意しておく。サブテーマは新田次郎『縦走路』である。


茅野駅には8時50分頃着いた。北八ヶ岳ロープウェイ行きのバスは9時25分発なのですぐに切符を買えたが、あずさ1号が着くやたちまち登山者でごった返し始めた。「老若男女の黒山の人だかり」と言いたいところだが、「にゃく」はあまりおらず、頭は黒、白からショッキングピンクまで種々の色に彩られていて、大変なことになっていた。

バス停の喧騒のわりにバスは以外と空いていた。同じバス停から発車する麦草峠へ行く人が多かったようだ。同乗の老夫婦はしきりに北八ヶ岳ロープウェイの割引を気にしていた。割引を気にするなら歩けばいいのに。山歩きに来て歩くのを回避するのでは主意が立たないだろうと思ったが、近頃年に1回くらいは自分も利用しているのでこれ以上の追及はよそう。


ロープウェイ駅に着いてすぐに登山道に入ったが歩きはたった2人だった。これではサブテーマの方がどうにもならない。

『縦走路』は新田次郎の山岳小説の一つである。物語の冒頭で八ヶ岳が登場する。そこで知り合う男性2人と女性1人、それにもう1人の女性を加えて登山と青春を軸に物語は展開していくのだが、この小説には物語を始めるにあたっての大前提がある。

それは「山女に美人なし」というものだ。山に来る女性に美人はいない。その前提を打ち破る女主人公が現れるところからこの小説は始まる。美人はどこでも声を掛けられるだろうが、山という特異で、かつ美人が来ないような場所で出会えば、若者なら必ずや声を掛けたくなるだろうというと。

山へ行く女性からすれば大変失礼な話である。裏を返せば山女はかなりの確率で美人ではないことになってしまう。これは断固として反論せねばならん、というわけでもないが、ちょうど八ヶ岳という舞台も同じなのでサブテーマに据えてみることにした。

しかしながら、登山口からはほぼ無人である。人がいなければどうにもならない。


登山道はロープウェイの下を通るようについていたが、途中からスキー場の整備道と混じり合ってよくわからなくなった。それでも上に行けばなんとかなるだろうと思って登って行ったら、最後に鹿柵に遮られてしまった。「自分は鹿ではありません」と主張したいが、自然監視員に「どうやってそこに入ったんですか!ダメじゃないですか!」と叱責されそうなので、ザックと身体を別々にして鹿用ネットをくぐり抜けて人間界に復帰した。

ロープウェイ駅から北横岳方面に向けてかなりの距離が遊歩道として整備されている。無人から一転して文字通り老若男女が溢れている。サブテーマの考察を始めたが、美人の人もそうじゃない人も、元は美人だった人や多分美人だっただろう人、あるいは美人候補生がいるというにとどまった。東京と変わらん。

北横岳への分岐に来ると人の数は格段に減る。まあここまでは観光客が多かったが、ここから先は登山者だけだ。それでも南アルプスなんかに比べたら雲泥の差ではある。5歳くらいの子どももいてお父さんとはぐれて泣いていた。一本道でどうやってはぐれるのかわからない。

北横岳はやはり人で溢れ、カップラーメンを啜る人、ホットサンドを作る人など、なんやかんや平和な光景だ。つば広の帽子に白のノンスリーブのブラウスに紺のロングスカートという街中と変わらない格好の若作りの婦人もいて驚いたりした。

北横岳から双子池は2時間くらいの行程だったが、たちまち人がいなくなり、道は火山岩で険しくなった。この日は人が溢れたり、消えたり忙しい。

双子池にはまったりするという主目的があったが、手紙を届けるというもう一つのミッションがあった。ミッションを果たして小屋のおじさんに渡すと、おじさんは「うれしいねー」と言ってビールをくれた。こちらこそありがとうございます。

閑話休題。双子池もお盆休み最後ということですごい人だが、テント同士が離れているせいか静かだ。夕方到着したお姉さんとしばし歓談したが、日暮れとともに眠くなってあっという間に意識を失った。


朝、双子池は水面から乳色の霧を流していた。あまりに静かなので少し寝過ごしてしまった。

テント場を発つとまた1人だ。鹿が2頭いたが、訝しげにこちらを見て立ち去った。昨日こちらは鹿になりかけたのだが。

天気はいい。そのまま下山するのは惜しいので蓼科山へ登る。天祥寺平というところから登っただが、涸れ沢を登るような道だ。また鹿柵にかからないかと思ったが、今回は何事もなく蓼科山荘に着いた。

蓼科山の山頂手前で昨日テント場で話したお姉さんと再び会った。少しおしゃべりして頂上へ行く。百名山だけあって賑わっている。岩の上ではしゃいでいる女性3人組がいた。

サブテーマの考察をすっかり忘れていたが、どうやら山女には元美人、または元美人と思われる方が多い。現美人はいないのかと言われそうだが、元美人も何年か前は現役だったはずだ。現役美人時代に山女だったかについてコメントを控えるが、「美人なし」などと言ってはならない。


蓼科山からの下りでは登山道への入口がわからず、再び鹿男になりかけたが、結局登り返して登山道を見つけて下山した。

よく「山ガールっていうけど、かわいい女の子いるんじゃない?」などと飲み会でしょうもない質問をされることがあったが、「あれは着ぐるみです」と答えるようにしている。美人などというものは相対的評価なのだから、美人が多いという現象そのものが起こり得ない。

ただ、今回も山には年配の方が多いのと、年配でも夢中になれるものがある人は素敵だなと感じて山を後にした。