クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

来週休みます

映画「釣りバカ日誌」で浜ちゃん役・西田敏行の台詞。

「俺はなぁ!実の兄貴を殺してまで来たんだぞ!」

忌引きを理由に釣りの誘いに駆けつけたわけだ。今有給休暇5日以上の取得を義務付けるという法案が提出されているが、休むを悪徳とみなすのが日本企業の長年の習いである。有休を5日取る人よりきっと5日以上サービス出勤する人の方が多いに違いない。

このシーンを見たとき、爆笑したのと同時に会社員は親族が死ななければ休むこともできないのかと少し悲しい気持ちになった記憶がある。

 

日本人の勤勉性とよく言われるが、スピーチなどで演者に恍惚とした表情で言われると鼻白むところがある。「本当かい?」と。

各国の労働時間を見ても日本が特別長いわけではない。OEDC統計で2017年実績を見てみると、年間労働時間で

1位:メキシコ2,257時間

2位:コスタリカ2,179時間

3位:韓国2,024時間

     ・

15位:アメリカ1,780時間

22位:日本1,710時間

38位:ドイツ1,356時間

だそうだ。日本はお隣の韓国と比べるとかなり少ない。1日8時間と仮定すると40日も少ない計算になる。1位のメキシコと比べると68日分にもなって「ホンマかいな」と思いたくなる。

メキシコとドイツの差になると112日分にもなってしまい、ドイツ人はメキシコ人の半分ちょっとしか働いていないという結論になってしまう。「アリとキリギリス」で言えばドイツ人がアリでメキシコ人がキリギリスになりそう(あくまで気候とかからのイメージ)だが、労働時間の実態は逆と言うことになる。

これを見る限り勤勉な日本人というのは幻想のような気がする。

 

私は経済学者でも労務の専門でもないので何とも言えないが、大学の「マクロ経済学」という講義で聞いた内容はこんな感じだった。

昔のサラリーマン夫婦で夫が会社員、妻が専業主婦という形態が多かった。企業とすれば、会社内で目一杯働いてくれればそれでいいわけで、家事は妻にやってもらえということになる。それに高度経済成長期は企業の業績も月給も右肩上がりだった。多少労働時間が長くても年功序列で月給が上がることが見えている以上は頑張ることができる。

結果、夫は早朝出勤、深夜帰宅の熱血サラリーマン、妻は家事のスペシャリストという夫婦が誕生する。ただし、互いにこの役割を交換することはできない。

ところが、経済成長期が終わると簡単に月給が上がらないのみならず、ボーナスカットやらリストラやらの不穏な状況が生まれてきた。そうなると共稼ぎにしてリスクをヘッジしようという発想になってくる。共稼ぎだから家事も当然分担しなくてはならない。しかし、昔の熱血サラリーマンたちが上司を務める会社では「家事なんか女にやらせればいい」みたいな発想がまかり通っているので、狭間の世代が四苦八苦している。

担当の教授は共働きをできる体制を官民総出で立ち上げなくてはならないと主張していたと思う。

 

私は一時期、1日14時間くらい働いていた。午前7時30分前後に出社し、退社するのは22時過ぎ。昼休みも30分くらいしか取ってなかった。仕事が終わったからではなく、「あー、これ以上働いたら疲れて次の日に差し支えるから帰ろう」くらいで、業務は泉のように沸いて果てることがない。当時の上司からは「お前が出社したところも退社したところも見たことがない」と言われた。こんな芸当はただの体力技で、全員ができるとは思わないし、私自身も60歳近くなってこんなことができるとは露ほども考えていない。

共稼ぎで2人が計16時間働けたら私1人の14時間より長い時間働くことができる。「働き方改革」の発想のもとはこのあたりだろう。人口減で経済が破綻するくらいなら国民皆兵で労働時間を増やさなくてはならない。これまで黙認していた「グレーゾーン労働」みたいなものを廃止しなければ、老若男女全員が働き続けられないと言っているのだ。

 

ただ、「働き方改革」はお役所的な発想にとらわれて、時間の確保ばかりが注目されているような気がする。

日本の風土として「生産性」という概念が乏しい。労働時間は数値化できるが、生産性の数値化は難しく、生産性を上げてもどうせ評価されないというのもある。それに夜遅くまで残っていると頑張っているように思われる。

私が14時間働いていたのは単に非効率な仕組みだったからである。出てくる稟議書の誤字脱字から投資回収期間の算定根拠やその他申請書のチェック。その後、同じ業務を8時間くらいで終えるように改良を加えた。しかし、こうなると周囲は「最近は楽になったんだね」くらいにしか見てもらえなかった。

長時間我慢して働いているからエラいというスポ魂的な発想がまかり通ているからこそ、労働時間に固執するのだろう。確かに労働は人生の有限な時間を切り売りしている行為に他ならないので時間という基軸は確かに重要だ。しかし、どう効率化したか、生産性を上げたかという視点がない限り、永遠に社会は進歩しない。

日本人が勤勉であるということは客観的に証明できない。しかし、「勤勉にあらねばならない」という強迫観念だけはかなりの割合で持っている。そして勤勉はすなわち労働時間だという考えもかなり残っている。これが生産性という考えを浸透させるのに悪影響を及ぼしているのことは間違いない。

 

私が「来週休ませてください」と上司に告げると、「なぜ?」と聞かれた。有給休暇の取得に対して理由を告げる義務はない。「は?」という表情をすると、上司は「まだ監査も続いているし相当の理由がなければいけない」としたり顔で言う。

どう答えたかここには書かないが、西田敏行のセリフが頭にあったことだけは事実である。

お葬式の思い出

結婚式について少し茶化した記事を書いたが、冠婚葬祭のしきたりはどれも不思議だったり滑稽だったりする。しかし、結婚式というおめでたいものを茶化すのは簡単だが、お葬式を玩具にするのには勇気がいる。何しろ人が死んでいるのだ。

ただ、少し思い出深かったお葬式について書いてみたい。

 

私がお葬式に本式に出たのはまだ数えるほどしかない。記憶にあるだけで、父方の祖父母、母方の曽祖父、母方の祖父くらいだ。親族を除けばお通夜に行ったことはあるが、お葬式はない。

思い出深かったのはこのうち、母方の祖父のお葬式だ。

祖父は大正生まれで、戦中は陸軍士官学校に通い、戦後に国立大学へ入り直し、財閥系の大手企業で定年まで勤め上げたという人物だ。定年後も向学心は止まず、旅行業の資格を取ったり独学で英語を学んだりと精力的な人だった。幼い日の私にとっては観光地へ行くたびに外国人を見つけてはその拙い英語で話しかける姿が大いに恥ずかしかった。

その祖父は私が高校1年生の時に亡くなった。もう肺がんで長くはないと覚悟はしていた。母が慌てて入院先の病院に向かい、祖父は妻と子どもたちに囲まれて亡くなった。その日は私の誕生日で、祖母は亡くなった瞬間「この日まで待ってたんや」と言ったそうだ。

 

亡くなってから私たち孫は呼ばれた。確か兵庫駅あたりの葬儀場だったような気がする。

私や妹は制服で、弟や他の従弟たちも慣れないフォーマルな姿で現れた。お棺に入った祖父を見ると、従弟たちが一斉に泣き出した。私もなんだか無性に悲しくなったが高校生の自意識で必死でこらえていた。

丁寧に化粧をされているせいか、お棺の中の祖父は死んでいるようには見えなかった。祖父はサザエさん一家の波平さんのような人である。頭の禿げ方から頑固さ、囲碁が好きなところなどはまさに波平さんだった。波平さんが死ぬ頃にはタラちゃんは成人しているだろう。タラちゃんは泣くのだろうか。

ひとしきり悲しんだが、私たち孫はまだまだ子どもだ。お通夜で十分悲しむと、すぐに退屈し始めてしまった。何しろ突然召集をかけられたので、勉強道具も暇をつぶす玩具も持ってきていない。葬式本番の日になると退屈はピークに達してきた。

 

お通夜は親族だけだったが、お葬式には普段見慣れない少し遠い親族も訪ねてくる。私は葬儀会場の一番後ろからぼんやりと前から座る参列者を見ていた。

ふと最前列に座る人物が気になった。後ろからだが、見覚えがあったからだ。まだ開始まで時間があったので、後ろの扉から会場を一度出て、前の扉からこっそり覗いてみた。

「えっ!」

思わず声を上げた、扉を閉めた。もう一度クッションの付いた少し重たい扉を開けてみる。

「へっ!」

間違いない。これは間違いじゃない。

死んだはずの「じいちゃん」がいたのだ。私はもう高校生なのだ。祖父の思い出に浸ってその亡霊を見るはずがない。ではあれは何なのだ?

その光景は実にシュールだった。祖父が自分の遺影の前に座っているのである。ドリフのコントでありそうな設定だ。

私は半ば本気でお棺に祖父がしっかりと入っているのか確認しようと思った。この状況は何なのか。私は母たちがいる控室にふらふらと向かった。

 

他の従弟たちもこの「異変」に気づいていた。みんな「あれは誰や?」とささやきあっている。1人の従弟が勇気を振り絞って私の母に訊いた。すると母はこともなげに

「ああ、あれはおじいちゃんのお兄さん」

と答えた。「えーっ!」とその時私たちは驚いた。祖父は末っ子で、上に10人くらいの兄弟がいたと聞いたことがある。ただ、末っ子なので上の兄弟はみんな亡くなっていると思い込んできたし、なにより祖父は自分の兄弟の話をしたことが一切ない。

母によれば参列者席にいたのは祖父の双子の兄だという。そう聞けば似ているのはもっともだ。祖父は昔気質の人で、双子は「畜生腹」、つまり犬猫と同じだと思っており、人には隠していたらしい。それはかわいがった孫たちにも同様だった。

サザエさん一家の波平さんにも双子の兄で海平にいさんがいる。こんなところまで同じだったのかと妙に感心し、前日の悲しみをすっかり忘れていたのだった。

 

お葬式は滞りなく終わり、私は翌日から何事もなく学校に通った。

それから2ヶ月後、葬儀に来ていた双子のお兄さんが亡くなった。お葬式の時はどこも悪いように見えなかったし、本当に突然という感じだった。双子には他人に隠していても不思議なつながりがあるのだろうか。

祖父が死ぬまで隠し通した双子の事実だが、それからこの二人の法事は同時に執り行われるようになった。

投稿マニア

高校時代に深夜ラジオを聴いていると、投稿の面白い番組が多かった。投稿は所謂「ハガキ職人」から送られてくるもので、あれだけの労作を毎週作り続ける情熱には大いに感心した。いくらウケても、もらえるのはステッカーくらいだから、毎週毎週いろいろな番組のいろいろなコーナーに葉書を(メール以前は葉書に手書きだった!)買って投稿するのは容易ではなかっただろう。内容はとてつもなくくだらないものが多かったが、よく思いつくなと感嘆するものばかりだった。

ハガキ職人」は完全な自己満足だが、深夜ラジオを構成する重要な要素だったことは間違いない。ハガキ職人からラジオの構成作家になる人もいたらしいが、なるほど納得である。

 

ひと頃弟が新聞の投稿に凝っていた。読者投稿欄に送るわけだが、ラジオの投稿と違って掲載されると図書カードなどがもらえるので、それを目当てにしていた。

その弟が高校生時代、何のコーナーかわからないが、読書感想文を投稿して、それが実名で引用され、わりと長い間ネット記事でも掲載されていた。

柄谷行人『世界史の構造』について書いていた。この本は単行本で横にすると3cmくらいの厚みになるとんでもない分量の本で、内容も難解。私は借りてパラパラめくったが、最初の3ページくらいで挫折した。おそらく「こんな難解な本を高校生が読んで感動したのか!」という驚きを胸に記事を書いたのだろう。ただ、投稿を出した段階で弟は完読していない。まだ初めの方を読んでいただけだった(その後全て熟読したが)。

記事の読者よりまずは記事を書いた方に深く謝らなければならない。

 

私はあまり投稿といったことをしたことがないが、最近定期購読している雑誌にたまに出すようになった。自分の書いた文章や写真が掲載されるのはそれなりに嬉しいし、別に対価がなくても構わない。掲載された雑誌をもらっても元から定期購読しているのだから、同じ雑誌が2冊になるだけだ。

多くの雑誌や新聞では読者投稿を用意している。そして掲載対象となれば何かしらの謝礼をしているし、その謝礼目的の投稿者もいる。しかし、インセンティブを求める投稿者は懸賞と変わらない。インセンティブを求める投稿には文章にその心が見え隠れしてしまうのではないだろうか。

 

純粋に掲載してほしいという投稿者はインセンティブなど求めない。出版不況の中で、インセンティブを求めない読者の多い雑誌だけが存続するような気がしている。

ジムクライマー

今年は天候が不安定でなかなか山に行けない。雨の山行を楽しめるほどの登山者ではないので、週末はクライミングジムでお茶を濁している。


いつも利用するジムはどこの駅からも中途半端な位置にある。いつも最寄り駅から歩くが、丘を越えて40分かかり、通常ならバスを使う距離だ。そんな辺鄙な所に通わなくても実はもっと近いジムがある。しかし、私が頑固にこのジムを利用するのはここの雰囲気がなんともいいからだ。
ジムは町工場の並ぶ真ん中にある。ジム自体も一見すると工場の一つだ。おそらく工場か倉庫の内部を改装して造ったのだろう。入口を入ると左にベニヤ板の受付があり、右に下駄箱がある。ホームセンターで板材を買って作ったくらいの簡単なものなので靴箱ではなく下駄箱がふさわしい。受付にはお兄さんの時もあれば、おじさん、おばさん、おじいさんで、お姉さん以外は揃っている。基本、店番は1人なので、奥で弁当を食べていたり、お客さんに混じって登っていたり(課題作りのため)するので、最初の頃は誰が客で誰が店員かわからなかった。
 
入ってすぐ左右にクライミングウォールが立っている。ボルダリング専門なので、高さはせいぜい4mくらいで、ホールドと呼ばれるプラスチックの突起がびっちり付いていて、それぞれに課題を示すテープが付いている。同じテープの付いたホールドのみを使って上まで行けばクリアなのだが、このジムはそれだけではない。
休みの日は10時か11時に開き、昼飯持参の常連さんがやって来る。ポットがあるのでカップ麺を食べたり、コンビニ弁当を食べたりする。みんなクライマーらしく贅肉のない体形だが、食べるものは比較的ジャンクだ。私も負けじと菓子パンを齧るくらいだが、なんだかちぐはぐな感じもする。クライマーの遠藤由加さんも「私の身体はほぼセ◯ンイ◯ブンでできています」と山岳雑誌の中で言っていたから、本当の山屋は食にこだわらない人が多いのかもしれない。
大概見たことのある人しかいない。駅から遠いのでフィットネス感覚で始めるような人はおらず、純粋に登ることが好きな人が多い。そして今やどこでも見られるスマホぱふぱふの人がいないのもここの特徴だ。クライミングスペースでは柔軟体操をしているか、登っているか、トポ(課題テキスト)を見ているか、壁を見ている。雑談もクライミング談義に限られる。
いくつかクライミングジムには行ったが、ここ以外にそんな場所はなかった。大抵がポップな洋楽か何かがガンガンかかっていて、隣と話すのも大声でなければ聞こえず、来る客層も20代前半から中盤。1人で来る人は珍しく、大概が3・4人連れだってやってくる。壁に向き合うより雑談とちょっとしたフィットネスが目的で純粋なクライマーはあまりいなかった。
 
 だいたい午後2時くらいになるとクライマーが1人2人とやって来る。普段着そのままの飾り気のない服装、すっきりとした体形の人が多い。のれんを掛けただけの更衣室があるが、そこでわざわざ着替えるような野暮はいない。大概はリュック、たまにシューズだけ袋に入れている人もいる。ブランド物のバッグなんていう人はいるわけがない。まさに純正クライマーという人ばかり。
 このジムのクライマーの平均年齢は高い。そしてベテランクライマーのレベルは異様に高い。中には子供連れで来て、子供そっちのけで課題に取り組んでいる。子供も子供で自分の課題に夢中である。そこらのポップなジムとはわけが違う。
このジムの特徴は壁にテープを貼って示している課題では飽き足らず、トポの課題に取り組む人が多いことだ。トポには設定者の名前が書かれており、模式図で描かれたホールドを見て課題を認識する。トポを見るのもちょっとした技術がいる。
店員が設定した課題もあるのだが、中にはお客で設定するのが好きなんていう人もいて、いつ見てもなかなか活況である。課題を客が作るのだから、もはや誰が客でだれが店員かの区別もない。

こんなジムだからなんとなく行きたくなる。同好の徒が集い、ベタベタした、関係性もなく純粋に課題に向かう。これだけで人生は十分ではないかと思える空間。
たとえ引越してもジム・クライマーが集うこんな場所が近くにあってほしい。

冷や水

男性が自分の年齢を初めて意識するのはアスリートたちが年下になった時らしい。ずいぶん前のアンケート結果だが、なるほど自分にも思い当たる。会社組織などでは新卒採用が少ない時期があったりで三十代でも若手と言われたりするが、アスリートならどの競技でも十分ベテランである。三十代も半ばに来れば誰しも引退を考えなくてはならない。プロ野球山本昌投手が五十代で勝ち投手になったりしたが、平均引退年齢は相変わらず二十代後半のままだ。

それに比べれば登山は息が長い。競わないという面もあるが、年輩でも凄い人がチラホラ、ではなくゴマンといる。

 

去年凄いオヤジに会った。

8月のお盆時期に私は北アルプスを縦走した。去年行ったのは、北アルプス裏銀座ルートの玄関口となる七倉から一山越えて、黒部湖の奥にある奥黒部ヒュッテから読売新道を経て水晶岳に抜けるルート。山に登らない人にはさっぱりわからないだろう。お盆の時期は山も人人になるので出来るだけ静かな所を選んだのだ。

さらっと書いたが、1日目は七倉から船窪小屋という山小屋を通過して針ノ木谷という沢を下る。小屋までの登りも急峻だ。小屋に着くと山小屋の主人が、「お茶飲んで行くか?」

人が少ない山域の長所はこういうところだ。人と人の距離が小さい。ありがたく頂戴して主人と会話する。今から針ノ木谷を下ると言うと

「さっき1人いたな。確か奥黒部に行くと言ってた」

先人がいるのは少し残念のようだが、心強くもあった。とにかく先の行程は長いのでお茶を飲むと主人に礼を行って谷の下降を始めた。

針ノ木谷のルートは沢沿いを黒部湖まで下る道だった。一応『山と高原地図』では実線、つまり一般登山道として表されている。下降を始めてすぐに川の渡渉が出てきた。川幅が狭ければ川面から頭を出した石伝いに飛んでわたることができる。一般登山道でもこれくらいならある。3回ほど飛びながら渡った。しかし、やがて飛んでは渡れない箇所がでてきた。川は基本的に下るほど水量が多く、川幅は広くなる。とりあえず、靴を脱ぎ、冷たい雪解け水に顔を顰めながら渡ったが、徐々に不安になってきた。

不安は的中した。裸足の渡渉からわずか2分後にまた靴を脱いでの渡渉。川幅は広がり、足を掬われないように歩くルートも慎重に選んだ。そして、頭の片隅に「本当に先人がいるのだろうか」という疑問が浮かんだ。

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10回あまりの裸足の渡渉、最後の渡渉では靴を脱がずに岩から足を滑らせて片足をびちょびちょにしつつ黒部湖に到達した。そこから湖沿いに際どく設置されている木道や梯子を伝って奥黒部ヒュッテに着いた。初日からヨレヨレだが、テント場は森に囲まれたいい雰囲気のところだった。北アルプスの最奥だけあって、来る人もみんなベテランという風情を醸している。隣のテントのおじさんは日本山岳耐久競争、通称ハセツネを2度完走しており、この日もトレラン用のシューズで来ていた。反対隣の女性は物静かな人かと思ったが、話し始めると「あたし、明日水晶に着けないかも。途中でビバークになるかもしれないし、水何リットル持って行こうかなー」と陽気に語った。ビバーク覚悟の段階で並ではない。テント場は全部で10人くらいしかおらず、酒を飲んで騒ぐこともなく、その日はみんな7時には就寝となった。


翌朝2時半、テント場はガサガサと出発の狂騒に包まれた。「草木も眠る丑三つ時」にふざけるなと思う人もいるかもしれないが、ここから次のテント場まで12時間以上。当然と言えば当然の判断である。私はのんびり、それでも3時に起き、朝ご飯を食べると、テントを畳んで4時に出発した。もうテント場にテントは一張りしか残ってなかった。

奥黒部から水晶岳に伸びる読売新道は赤牛岳までひたすらの登り坂となる。前日も12時間行動だったこともあって、ひたすら辛い。しかも水場がないので、水だけの重量が余計に重く、かと言ってガブガブ飲むのも後の行程を考えると怖い。

重荷に喘いでいると、そのオヤジは現れた。と言っても何の変哲もない山オヤジである。推定50代、ガッチリ体形だが、身長は160cm少々といったところか。オヤジの足取りは決して早くないが、決して止まることがなかった。一方で私の足取りはオヤジより早かったが、ひたすら登りのこのルートでは、時々息を整える必要があった。ダンゴムシのようにゆっくりだが、正確に一歩一歩足を運ぶそのオヤジは、私を抜き去るとそのまま樹林帯の中に姿を消した。そのオヤジのパンツが派手なオレンジだったのが印象に残った。

再びオヤジの姿を見たのは三俣小屋のテント場だ。その日、12時間かかって私は赤牛岳、水晶岳鷲羽岳を越えて午後4時半くらいになって三俣小屋にたどり着いた。曇っていたにも関わらず2リットルの水は全て飲み干し、前日に続いてよれよれである。テントを張り、水を汲みに行った帰りにさっそうと歩くオヤジとすれ違った。前日はテント場で全く話さなかったが、ここで話しかけてみた。

「いつ着きました?」

「3時くらいかな」

私は頂上で写真を撮ったり、水晶小屋でハセツネおじさんとビールを飲んだりしてはいたが、それでも地図のコースタイム15時間以上を12時間半で歩いたのだ。それをさらに上回る推定50代のオヤジがいたのは驚異だった。そして、針ノ木谷を私より先に下っていたのもそのオヤジであることがわかった。

「うーむ」

テントで起き上がる気力もなくごろごろしながら思った。人間の体は不思議なものだ。鍛えていれば20歳くらい年下と対等、それ以上にわたりあえる。一方でひと月も動かなければ、足腰は衰え、歩くことすらおぼつかなくなる。

年寄りの冷や水」と言うが、老いも若きも冷や水は常に浴びなくてはならない。

コンプライアンスの哲学

2泊3日で社内研修に行ってきた。

事前課題がいくつかあり、小論文とプレゼン資料を作成したのだが、こんな時のテーマは実用性のない抽象的なものと相場は決まっている。小論文のお題は「コンプライアンスの実践」だった。

 

企業はコンプライアンスとやたらに口にするが、どうもこの言葉を聞くたびに小さな反発心の泡が胸中に起きる。「コンプライアンスを重視することがどうして悪いのですか!」と反論されても困る。困るけど何となく反発したくなる。

コンプライアンスとは日本語で法令順守と訳される。法令は守るためにあるのだから順守は当然である。「当然のことをいうな」というのもあるが、ひねくれ者の私には「企業は法令さえ守ればいいのか?」という疑問が浮かんでくる。

今ならパワハラなんて言われる行為だって、過去は当然とばかりにまかり通っていた時代がある。30年前の時代には「ハラスメント」と言えば「セクハラ」くらいしか認識がなく、「同性あいてならハラスメントにはならない」という考えの人だって多かったはずだ。「パワハラ」なんて唐突に出てきた言葉のようだが、今も昔も権力を笠に着た嫌がらせなんて誰も受けたくない。「パワハラは違法だから止めよう」などと言いだすのは行動規範がないからで、他人の決めた法令に違反となればやらない、合法ならやるくらいの考えで行動しているに過ぎない。

私の中で泡のように生じる反発心の源泉は「違法性云々を言う前に自分で考えてみようよ」ということなのだ。特に企業ならその企業が掲げる理念があり、それに沿って事業を続ける必要がある。理念のない企業はただ生きながらえるためだけに利益を追求する餓虎だ。企業に勤めているのなら企業理念に沿った行動かどうかが第一の基準であり、理念が自分の行動規範と合わないならその企業を去らなければらない。

 

「ぼくはコンプライアンスなんて言葉は大嫌いだね」

今は定年退職したOBが吐き捨てるように言った。会社随一の人格者で、安岡正篤を敬愛して自費で買った冊子などを社員に配ったりしていた人だ。この人には今の役員も頭が上がらないという。

その方に言わせれば、「法令を守るなんて当たり前すぎる」と言う。なるほどこれほど高潔な人になると、「法令を守ろう」なんて「信号を守ろう」くらいの幼稚な議論に見えてくるのだろうと当時の私は解釈していた。

しかし、今考えるとその方からすると自己の哲学もなく法令を守ろうと叫ぶことが幼稚に見えたに違いない。自分に確固たる哲学があれば法令を犯そうなんて思わないはずだと。

 

話は若干逸れるが、私の地元は一度は日本一汚い川となった大和川の上流にある。

普段は10cmくらいしか水位がなく、常に泡が立っていた。小学校では「川にゴミを捨ててはいけません」と教えられたが、ゴミ以前に水が汚水と洗剤で壊滅的に淀んでいた。当時からひねくれ者の私は「ポイ捨てしたゴミで水が汚いわけではないだろう。川をきれいにしたいなら水をきれいにすることが先じゃないか」と考えていた。まったく可愛げがない。

ポイ捨ては不法投棄という犯罪である。犯罪だから学校では注意しなくてはならない。では汚水を流すのはどうかというと法律に抵触しない範囲ならOKということなのか。当時の私はそんなことを考えながら「大人の不条理」を感じていたのだ。

1970年代、80年代に法令に違反しない範囲で不要なダムが大量に作られ、日本の山河はめちゃくちゃになった。果たしてどのような理念がそこにあったのだろう。

その後、今更のようにCSRと言う言葉が喧伝され、環境保全も企業の社会的責任と言われるようになった。新しい言葉が出るのは良いが、逆に言うとそいういう言葉ができるまで全く環境問題など考えずに行動していた証拠でもある。

 

こんな文章を書いたわけではないが、400字詰め原稿用紙2枚に「経営理念をよく考えてみよう。そうすればコンプライアンスなんてどうすればいいかわかるはず」という趣旨で小論文を書いた。これは婉曲な課題のテーマに対するアイロニーのつもりだったが、研修の受講者の中では意外性があったのか最も高く評価された。

しかしながら、外部の小論文を評価する人の採点では最も低い得点だった。まあそうだろう。テーマそのものに私は食ってかかっていたのだから。

無知と知

時事ネタがわからないと書いたが、人生の中で時々自分の無知を実感することがある。これは誰しもだろうが、誰もが知っている中での自分の無知は時にある種の劣等感になったりもする。

 

私が最初にこの劣等感に出会ったのは幼少時代のアメリカ滞在時やそこからの帰国時だが、これはさほど大きな問題ではない。自分の環境が短期間に大きく変化しただけで、自分が他者より優れているとか劣っているとかいう考えすらなかったからだ。この感覚を一番激しく持ったのはやはり就活の時期だろう。

弱小大学の文学部だった私は三回生の途中でなんとなく就活を始めたが、適切なアドバイスを求められる人は周囲には一切いなかった。何しろ学生数が高校より少ない大学なので企業との有力なコネクションもなく、一般企業に就職したOBの割合も少ない。大学の就職実績はホームページ等に掲載されているが、私が結果的に就職した企業名がかなり長期にわたって載り続けたこと(私の前後に誰もいない)を見てもいかに就職に向かない大学だったかがわかる。

仕方がないので就活本などを読んでわかった気になるのだが、実際に企業を訪れると他の学生が知っていて自分の知らない壁にぶち当たることになる。

 

関西の有名企業にネットにエントリーした時の話だ。ある日その企業の社員を名乗る人からメールが入った。すわ成りすましかと身構えてその企業の採用担当者はOB訪問をしてもらう取り組みですと言う。「服装も普段着でいいので気軽に会ってみてください」と言う明るい女性担当者の声に、私は気楽に会ってみることにした。

待ち合わせは大阪駅近辺の喫茶店だったような気がする。仰せの通りの普段着で向かった私は喫茶店の周辺に来ると不穏な気配を感じた。なんだかリクルートスーツの学生とおぼしき若者が不自然に多いのだ。待ち合わせの喫茶店に向かい、その有名企業社員の人と顔を合わせたあたりでようやく悟った。喫茶店の隣もその隣もリクルートスーツと普通のスーツ姿の人間ばかりだ。こんな人種ばかりの喫茶店はない。これは応募した大量の学生を若手社員と会わせ、第一弾のふるいにかけるためのいわば面接だった。

私の相手をした社員は明らかに私の服装や心構えを見て軽侮していただろう。会話も全く噛み合わず、ただ決まっていたであろう時間を消費して終わった。

あれは何だったのか。私はその企業の採用戦略を事前にリサーチしているか、そして社会人同士で会う際の常識を試される試験なのだと理解している。

 

しばしば「日本の常識、世界の非常識」と言われる。なんとかかんとか就職して最初の新入社員研修で顕著に感じたことがある。新入社員研修なんて何回も受ける人はいないので比較はできないが、私の入った企業は熱海にある研修センターで朝からジョギングしながら社名を連呼するというどこぞの新興宗教のような研修だった。

まあ別にジョギングが研修本体ではなく、最初にやったのは名刺交換である。トレーナーである先輩社員が手本を見せ、みんなそれに従うのだが、あれほど珍妙な光景はない。今でも不可思議だと思う。あれが日本全国の企業で何十年にもわたって行われていると思うと、おかしさがこみ上げてくる。

おかしさの源泉はお辞儀だ。話は逸れるがかつてケイン小杉のお父さんショー小杉が出演した"NINJA"という映画を見たことがある。ストーリーは、ショー小杉演じる忍者の父が悪党の奸智によって殺され、息子忍者が敵を討ちというものだ。そこにアメリカ人の白人カップルがからんで、というか忍者は英語を話さないのでこのカップルが主役なのだが、おおよそそんなイメージで十分だ。

最後にショー小杉が敵討ちを成功させ、危機に陥った白人カップルも助かってめでたしめでたしとなるのだが、ラストシーンが印象的だった。助かった白人カップル(にやけたイケメンとセクシーな美女)が黒装束のショー小杉に向かってお辞儀する。まるで取って付けたようにデパートの店員のように身体を折って頭を下げる2人。それに対して何も反応しないショー小杉。

「日本人にお礼をするならお辞儀だろう」という安直な発想だが、それを笑えないくらい我々はペコペコしている。事実、今日は社内研修で20回はお辞儀した。お辞儀=礼儀。奇妙な、珍妙な日本の礼儀だ。

 

さて、お辞儀を忘れると「礼儀知らず」と言われる日本だ。先の就活の件も知らないことで何とも言えない気分を味わった。では知ることが全てかというとそうでない気がする。礼儀を万事心得た社会人となるに従って、日本式名刺交換の滑稽さには気がつかなくなる。無知のうちは気になるおかしみが知に変わる瞬間に常識になり、滑稽さに気づかなくなる。知の山の脇には必ず無知の谷が眠るのだ。

常に俯瞰的に見れば、客観性を持てばいいと言えば単純だが、人は自分の目でしか物事を見ることはできない。少なくともその無知の谷間が眠ることくらいは心に留めて今日の眠りに就きたい。