クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

北海道自転車放浪記-7

北海道らしい景色と言えば広大な牧場や地平線まで伸びる大地、緑の草原を自由に疾駆する馬。知床までを往路とすれば知床以降は復路となる。折り返しを迎えて最後には北海道らしい景色に出会いたかった。

知床からは海岸線を中標津まで進み、道東の内陸部を通って帯広を目指す。『ツーリングマップル』を見て北海道らしい景色を探した。地図の記載によると多和平は360度地平線が眺められる大牧場だという。前半で美瑛や富良野といった北海道の定番スポットをパスしたので、北海道を堪能するにはここしかないと思った。

 

中標津から内陸に入ると直線的な道路が増えた。時折背後から通過する車はどれも猛スピードで怖いが交通量は少ない。

自衛隊の車両が隊列をなして追い越して行く。さすがに「国営」だけあって制限速度順守で通り過ぎていく。遅いので顔の表情が見えるくらいだ。しかし、みんな前をキッと向いたまま表情を変えない。汚いシャツを着て自転車を漕ぐこちらと茶色の制服で身を固めた彼らに大きな隔たりを感じた。任務の間は表情を緩めてはならないという規則があるのだろうか。平和を謳歌する若者への軽蔑だろうか。

車列は始まってから10分以上かかって最後の車両が私を追い抜いて行った。最後の車両に乗車していた1人だけが私に手を振り、私もそれに気づいて慌てて手を挙げた。

 

多和平に行く前に食事をした。

自転車を長時間漕ぐと腹が減る。登山やマラソンのような有酸素運動もそれなりに腹は減るのだが、自転車は一番だと思う。朝6時に朝食を食べてスタートすると9時には第2の朝食、12時に昼食となり、3時間おきに食事を摂ることになる。バイクがガソリンを食うように人が燃料を食うのが自転車だ。

ツーリングマップル』に載っていた「やまや」という洋食屋に入った。地図に「ボリューム満点」と書いている「やまやスペシャル」なるものを頼む。時刻は2時過ぎでカニ飯の時と同様にほとんど客はいない。のんびりと水を飲みながら空腹をやり過ごした。

出てきたのは唐揚げ、スパゲティー、目玉焼き、チキンライスをこれでもかという具合に1枚の皿に乗っけた料理とも言えない料理。味はそれぞれまあまあなのだが、とにかく量が多い。

北海道には腹ペコ自転車族のために大盛りの料理を出す店がいくつもある。私は行っていないが、道北の方のラーメン屋には「チャリダー麺」というメニューを出す店があって、30cmくらいの高さになるラーメンを出すらしい*1。丼に高く聳えるのは大量のもやしで、客はそれを上からワシワシと食していく。その下の麺も3玉くらいはあるらしい。これより小さいのは「ライダー麺」でそれでもなかなかクレイジーな量だと言う。

この「やまやスペシャル」もどうだこのヤロ的な北海道ならではのスケール感のメニューではあったが、途中からはわざわざ北海道に来てまで食べる内容でもないと感じるようになり、最後はチャリダー(北海道では自転車ツーリストをチャリダーという)の意地で完食した。

 

多和平は小高い丘のキャンプ場だった。

1日汗をかいたのに風呂がないのは誤算で、タオルで身体をふくが少々気持ち悪い。「やまやスペシャル」のおかげで胸焼けがして夕食は食べる気がせず、テントの前で何をするでもなくぼんやりとしていた。多和平は丘の上なので、機動力のあるバイクの人は多かったが、自転車の人は見かけない。バイクの人も集団で来ている人が多く、私は独りぽつねんとしていた。

やがて日が丘の向こうに下りて行った。逆光の丘を眺めていると数頭の馬が反対の坂を登ってきた。やがて馬たちの影が丘の上で踊り始めた。少しずつ陽の光が力を弱めていくと、馬たちは舞踊を止めてどこかに立ち去って行った。

*1:後に閉店したと聞いた

北海道自転車放浪記-6

いよいよ知床に来た。

知床半島は北海道の角のように北東へ張り出しているが、その付け根から付け根へ知床縦断道路が走っている。西の付け根は斜里で、東の付け根は羅臼である。

私は夕べバーベキューをごちそうしてくれたお兄さん方に礼を言って別れを告げ、知床五湖へ向かった。知床半島の西側の付け根から少し北上すると知床五湖がある。知床五湖に向かう道に入るとどこからともなく大型観光バスが現れ、この日本の僻地に渋滞が発生していた。自転車はこのあたりは楽だ。駐車場待ちをしている車をすり抜け、湖に向かった。

当初、北海道旅行を企画した時、知床を最終目的地にしていた。自転車で「日本最北の秘境」に向かう。そんな漠然としたイメージで北へひた走ったわけだが、知床五湖は一大観光地だった。知床はヒグマの一大生息地であり、ビジターセンターではクマよけのカウベルが売られていたが、もはや観光客だらけ、クマ鈴だらけであちこちからカランコロンが聞こえてきて、これではクマも寄り付かんわという状態だった。

森の中から羅臼岳を見上げることができる。陽が差してきたの緑が映える。知床の美しさはわかったが、木道から眺める景色はちょっと作りの凝った博物館のようなバーチャルな印象だった。

 

知床五湖からは一度戻って知床縦断道路を通り、知床峠を越えて羅臼に下りる。縦断道路はつづら折りの坂が続き、大量装備の自転車にはきつい登りとなった。後ろから自動車やバイクがシュンシュンと抜かしていく。

ヒーヒー言っていると、1台のバイクが通り過ぎ、20mくらい先で止まった。「誰だ?」と思ったら、一緒に北海道へ来た同級生である。「おー!」とこちらはテンションが上がるが、彼は冷ややかに「大変そうだねー」などと言う。しばし、それぞれの行程を話すと彼は「じゃあ、もう会わないと思うけど」と言って笑顔で去って行った。

やれやれ、自転車はひたすら孤独なのだ。

自転車の走行距離には個人差がある。私の場合は1日100kmくらい。1日80kmの人と比べると5日で100kmの差が出てしまう。1日の中でのスピードのリズムもそれぞれ違う。結局距離の自転車ツーリングは1人が良い。

 

知床峠までの長い登りを抜けると空は曇ってきた。折角のピークなのにガスで遠くは全く見えない。

ようやくたどり着いたという気分だったが、誰にも話しかけられない。峠にある駐車場では大学のサークルらしき自転車集団がいるが、団体で来ている連中には話しかけづらい。自転車は1人がいいと言いつつも寂しいものがある。

早々に峠から坂を下る。荷物が重いので慎重にハンドルを操作するが、メーターは時速40kmを示している。慣れてくると楽しくなってきて鼻歌も出始める。ふと前を見上げるとカーブの先にバイクを見つけた。バイクは止まっている。バイクの後部には赤いものが括り付けてあった。

バイクに近づいてみるとミラーは折れ、クラッチレバーが外れかかっている。一目走行不能のようだ。後部の赤いものは寝袋だった。そしてそれは私が同級生のライダーに貸したものだった。バイクはワイヤーでできたガードレールに立てかけているようだ。もしかしてこの崖から落ちたのかと思い、崖下を覗き込んでみたが下は深い森が広がっているばかりだった。携帯の電波は通じない。私はバイクをそのままにしてモヤモヤを残したまま坂を下った。

 

羅臼の国営キャンプ場はキャンパーにとっては最高の場所だと言える。景色こそないが、森の中で敷地は広々しており、近くには温泉もある。

キャンプ場でバイクの同級生に電話を掛けた。

「あれ、バレた!?」

と彼は言った。何のことはない。下りでコケて走行不能になったのだった。大して怪我もせず、通りがかりの車に乗せてもらい、電波の通じるところまで移動したらしい。

レッドバロンに連絡して修理してもらうことになったよ~」

にこやかに答えられると、崖から落ちたかと心配した自分が大げさだったのかとも思う。ただ、過去に教習所で足を折った「前科」があるだけに万が一を考えてしまうのは無理もない話。

キャンプ場の喧騒を聞きながらモヤモヤはさらに心の中で取れないシミのように広がるのだった。

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北海道自転車放浪記-5

今振り返ると、過去の出会いを大切にすればよかったなと思うことがある。「旅は一期一会、出会いはその時だけ」と勝手なスローガンを掲げていたせいか北海道2週間の旅でその後につながる交流は何も残っていない。今でもサロマ湖近くのキムアネップで会ったお兄さんとお姉さんとまた3人で自転車で走れたら面白いと思う。

 

色黒のお兄さんは30歳くらいで日本一周中だという。一度就職してインターネット関係のシステムエンジニアとして働いたが、退職して自転車で沖縄から北海道へやって来た。ネットのエンジニアらしく旅にデジカメとパソコンを持参していて、今の状況をブログにアップしているらしい。

ポニーテールのお姉さんは26歳。何をしていたかは訊かなかったが、こちらも仕事を辞めて自転車とテントを買って北海道に来たと言う。

こういう話を聞くと不思議な感慨に囚われた。私は来年には就職したらもう2度とこのような長期の旅行はできないだろうと思って来ていた。ところが、ここには仕事を辞めて来ている人がごろごろいるのだ。普通のサラリーマンをやっていて1ヶ月もツーリングに出かけるなどできないのも事実だが、仕事を辞めても大丈夫なのもまた事実なのだ。何より仕事を辞めた人が特にこれからに不安を持つこともなく、むしろ生き生きしていた。お兄さんの方は帰ったら自転車屋をやると言っていたが、お姉さんの方は決めていないという。

その後、山によく行くようになった。しかし、山では若くして無職という人に会ったことはない。山に行く段階で装備や交通費などある程度の経済力が必要にはなる。それに気力と体力に満ちていないと厳しい気象に押しつぶされる。一方、自転車は実に金がかからない。北海道は無料キャンプ場やほとんど500円以内の宿泊施設が充実しているし、何より夏は涼しくて広い大地が気分をのびやかにさせる。

夏の北海道はさまざまな人生交差点となっていた。

 

キムアネップでの朝、金色に照らす陽の光の中でお姉さんにコーヒーをもらった後、キャンプ場を後にした。

キムアネップからサロマ湖畔を東に向かう。北海道の列車は架線のないディーゼル機関車である。広い大地を1両の汽車がゆっくりと走っていく。狭い都会を何両もの車両を連ねた列車が暴力的な音を立てて走り抜けるのは同じ日本と思えない。

北海道ではコンビニをよく利用した。北海道にはセイコーマートという地元チェーン店がある。本州の大都市のコンビニと違って、地元野菜や肉・魚などの生鮮食品が多く売られている。さしずめスーパーとコンビニのあいのこみたいなもので、自転車乗りの「給油所」となっている。

あるコンビニで買い物を済ませると表で自転車をばらしている青年がいた。彼はここで旅を終えて帰ると言う。自転車はコンビニから宅配便で送り、身体だけで帰るらしい。そういう手段もあるのだ。

「網走に行ったら『ホワイトハウス』という店に行ったらいいですよ。ウニ・イクラ丼とステーキの定食が出ます」

インターネット全盛時代だが、口伝えの情報には血の通った価値を感じる。私は例を言い、必ずその店に行くと言って別れた。

 

ホワイトハウス」は商店街にある洋食屋風の食堂で、伝え聞いた通りウニ・イクラ丼とサーロインステーキと言う掟破りの定食が出てきた。正確な値段は忘れたが1000円くらいで破格ではあった。味は値段の割には美味いという感じ。イクラは普通だがウニは蒸したムラサキウニで、サーロインも格別というほどではなかった。

 

網走を出てその日も海辺のキャンプ場に泊まった。キャンプ場と言う表記はあるが、車が1台止まっているだけで管理人もいない。海では3人の男女が水をかけ合って遊んでいる。

この日、「ホワイトハウス」で腹を膨らませて油断したのか夕食の食材を買い忘れていた。キャンプ場の周囲に何かあるだろうと高をくくっていたら全く何もない。食料は冗談ではなく米と塩しかない。仕方がないのでテントのそばで米を炊いて塩をかけて食べた。

海から上がった兄ちゃんが「おー、1人か」と訊き、「後で来いよ」と言われた。

日暮れ時、前日に会った日本一周のお兄さんが再び現れた。網走監獄を見学して、さらに他も観光してから来たと言う。こちらは1日漕いでようやく着いたというのにすごいスピードだ。

 

米だけのわびしい食事後はやることがない。誘われたこともあるので、日中水遊びをしていた兄ちゃんのところを訪ねた。

兄ちゃんは他に女性2人を連れてバーベキューをしていた。日に焼けてガッチリした身体で、鼻の下に髭を生やしている。2人の女性も同じく健康的に日焼けしていて、ちょっとヤンチャな雰囲気だ。ちょっと気後れしたが、3人での会話もネタが尽きたのか笑顔で迎えてくれた。

3人は釧路から来たという。関係性は今一つわからなかったが、ひどく暑いので海に入ろうと言うことになったらしい。豪勢にたくさんの肉を用意したが、3人中女性2人では食べきれないようで「よかったらどんどん食べて」ときた。こちらは米しか食べていないので遠慮なくいただく。

ついでに日本一周のお兄さんも呼んで5人で盛り上がった。日本一周のお兄さんはさすがに話題が豊富だった。写真や自身のブログを紹介し、木でできた名刺を配った。

その名刺は先日掃除をしている中で懐かしい空気とともにポロリと出てきた。

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北海道自転車放浪記-4

同級生のライダーとは北海道に入って4日目に別れた。最初から日中の行動はバラバラだし、バイクと自転車ではあまりにスピードが違い過ぎる。旭川を過ぎて私は一直線に知床を向かったが、彼は最北の宗谷岬の方も行ってみたいという。

旭川からは山道を登って北見峠を越えて、途中一泊し、サロマ湖を目指した。旭川を過ぎると交通量も落ち着き、静かに、孤独に自転車を進める。

 

北見峠から下りに入って丸瀬布という町に入った時、突如事件は起きた。

自転車を走らせていると、パチンという音。自転車が何かを踏んだかと思っていたら、車輪が回るたびに小さなカンカンという音がする。何事かと思って自転車から降りると、後輪のスポークが1本折れていた。自転車のタイヤを支えるスポークは細い針金のようなものだが、1本でも折れるとホイールのバランスが崩れ、走行不能になる可能性がある。

ちょうど街中だったのが不幸中の幸い。道を歩いている人に自転車屋がないか訊いてみる。しかし、その日は日曜日で町に一軒しかない自転車屋は休みだという。隣町は遠軽という町である。丸瀬布よりは大きいから自転車屋もやっているだろうと聞き、決断した。大きな荷物は前のキャリアに移し替え、折れたスポークは邪魔にならないように隣のスポークに巻き付けた。ホイールがぐにゃぐにゃに曲がったらおしまいだ。車輪が壊れないよう祈りを込めて静かに自転車に跨った。

遠軽では昭和30年代くらいからやっていそうな寂びれた自転車屋で「職人」といった風情のおじいさんがテキパキと修理にかかってくれた。丸瀬布から遠軽までの20kmの間にスポークはもう1本折れて、ホイールはブレーキにあたるほど歪んでいたが、「職人」の鮮やかな技で復活した。

「こんな修理できる自転車屋はなかなかいないぞ!」

「職人」は「兄ちゃん、運が良かったな」というニュアンスと自分の技量への誇りを言外に秘めて言った。私はその意をくんで「さすがです!」「助かりました!」と最大限の賛辞を送って外の出た。

出るとそれまで曇っていた空がいつの間にか晴れていた。

 

遠軽で自転車を修理してもらうと不意に空腹を覚えた。

この自転車旅行中、ずっと菓子パンを齧り水を飲んで進んでいたが、自転車のトラブルで少しほっとしたのか、北海道らしいものを食べたくなった。町を出て少し行くと土産物屋兼食堂といった赤い屋根の建物が建っていた。のぼりに「カニ」という文字を見てそちらへ自転車を滑らせて行った。

昼食の時間はとっくに過ぎて客は他にいない。テレビで高校野球をやっている。カニ飯を注文するが、店のおばさん、兄ちゃんとも仕事は上の空だ。手が空くとテレビに注目している。

その日は甲子園の決勝だった。駒大苫小牧早稲田実業田中将大と斉藤祐樹の両エースの投げ合いになる試合にその店だけでなく北海道中が注目していた。時折、駒大の選手が凡退したのか「あ~!」という声が上がる。店に配達で来たおじさんも「今どうなってる?」と言ってテレビを覗き込む。

私は出てきたカニ飯をきれいに平らげると、お代を払い、足音を殺して外に出た。

 

坂を下るとすぐに海だった。

もう夕方になっている。今日どこに泊まるか。『ツーリングマップル』を見るとキムアネップ岬というところに無料キャンプ場があるらしい。ライダーハウスといい、北海道のツーリング事情は素晴らしい。しばらく地図を眺めていると後ろから自転車の人が近づいてきた。

ドロップハンドの自転車に跨った細身で日に焼けたお兄さんだった。「こんにちは」とだけ挨拶を交わしたが、特にそれ以上の話もなく、お兄さんは風のように行ってしまった。

しばらく海沿いを走ると前方に黄色いシャツを着た自転車の人が見えた。少しずつ距離が縮まっていく。やがてそれが女性であることに気付いた。サンバイザーの後ろから一つに束ねた長い髪が下がっている。「カッコイイ」思わず呟いた。

徐々に距離を詰めながら進んでいると、先ほどのお兄さんが道端で写真を撮っている。会釈しながら追い越す。

前を行く女性にもう少しで追いつきそうになった時、ふと後ろを見るとすぐ後ろにお兄さんがピタッとついていた。私もここで追い抜くような無粋なことをせず、3台の自転車はまるでチームのように等間隔で走り、途中の分岐でゆっくりと停車した。

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北海道自転車放浪記-3

船は真っ暗闇の北海道に着いた。

前日の23:57に舞鶴港を出港して23時間、23:00に小樽港に着いた。船から吐き出された自動車やバイク・自転車はたちまち方々へ散って行った。道沿いに見かけた牛丼屋で同級生と2人で飯を食い、24時間営業のスーパー銭湯で風呂に入り、休憩スペースで雑魚寝。もうかなり遅い時間なのに酒を飲んで騒いでいる連中がいて、ようやく眠りについたのは3時だった。

翌朝、ぼんやりとした中「鱗友食堂」という店に向かった。せっかく小樽に来たのだから海鮮丼でも食べようということになったのだ。一緒に来た同級生はこの北海道ツーリングはむしろ食べ歩きと言っていい。バイクで走って食べるのだから「食べ走り」か。彼はサンマの刺身を載せたサンマ丼、私は鮭の親子丼にした。

腹ごしらえをすると彼とは別れて札幌を目指す。夕方に札幌の少し北、岩見沢の先にあるライダーハウスで再会の予定だ。

 

その日はひたすら自転車を漕ぐだけだった。

小樽と札幌間にさほど面白い光景はない。多少の起伏とやや蛇行した石狩川があるだけだ。交通量が本州と同じくらい激しいというのもある。淡々と漕いで札幌に着き、アウトドアショップであらかじめ注文していた寝袋を受け取ると再び北上した。北海道に来てまで都会に居続けたいと思わなかった。

札幌から旭川方面に自転車を走らせる。札幌からは北海道らしいまっすぐな道に変わった。自転車はとてつもない重さだが、一度スピードが付くと普段と変わらない。空は曇天で車の交通量は意外と多い。札幌の北は日本一長い直線道路で非常に単調。見晴らしもさほど良くない。

なかなか高ぶらない自分の心に対して「お~い、お前は今北海道を走っているんだぞ~!」と呼びかけてみた。

 

北海道には至る所にライダーハウスと呼ばれる宿がある。バイクや自転車で旅行する人向けの安宿で、寝袋などを持って行けば500円とか1000円で泊まることができる。

この日泊まったのは公民館のようなライダーハウスで、コインシャワーが併設されていた。シャワーを浴びて出ると、宿泊所の玄関にある囲炉裏でおじさんがトウモロコシを焼いていた。「食え!」と言われたのでありがたく頂戴する。自然に囲炉裏を囲むライダーたちと話を始めた。同年輩と思われる兄ちゃんは来年から大手自動車・バイクメーカーで働くらしい。

「就職を決めた〇〇の前に××自動車も面接行っただけど、そこの面接官が『当社の将来をどのように考えますか?』と訊いてきた」

どうやら私と同い年くらいらしい。

「そこで俺プチっときて『そんなこと今日の判決を聞いてからでしょう!』って言ったった」

これには少し注釈が必要だ。彼が採用面接を受けた××自動車が製造した車両はその直前に死者を出す事故を起こした。当初、車両の整備不良と見られた事故だが、捜査が続く中で車両の耐久性が疑われるようになり、しかもそれは組織ぐるみでのリコール隠しという深い闇を炙り出すことになったのだった。その面接当日は偶然にもその事件の判決の日だったのだ。

それにしても面接官も驚いただろう。型通りの質問に対して正論で思い切り怒られたわけだから。

「面接が終わったら、爽やかに『ありがとうございましたー』って言って帰った」

こういうバイタリティー溢れる人が就活でも成功するのだろう。

その後、彼は他の武勇伝を語りだした。とは言っても武闘派的な武勇伝ではなく色恋関係。彼は年上好きらしい。

「ある合コンで会って付き合いだしたら、ベッドで『私、夫と子どもがいるの』って告白された」

こういうバイタリティー溢れる人が恋愛でも成功あるいは失敗するのだろう。

犬も歩けば棒にあたる。この日、少し賢くなった。

北海道自転車放浪記-2

北海道へは舞鶴から小樽へフェリーで渡った。しかし、まずは自宅から京都に住むバイクの同級生の下宿に寄って一泊。翌日舞鶴に向かい深夜発のフェリーに乗る。何事もなければここらの記載は飛ばすつもりだったが、実は舞鶴までの道が一番困難だった。

出発2日前に私は風邪をひいて布団でうなっていた。ひどく暑い夏で、冷房で体調を崩したに違いなかった。よれよれで出発前日に荷物を詰め込んだが、頭が働かず早々に終わらせた。その後いろいろな忘れ物が見つかることになる。

 

翌日、灼熱の京都へ出発。道路沿いの温度計は43度と示していた。京都の北にある同級生の下宿に着くとすぐに倒れこんで寝てしまった。

翌日もよれよれで出発。『ツーリングマップル』で舞鶴まで直線距離で行ける道を選んだ。『ツーリングマップル』はバイクツーリング用の地図だ。自動車に乗せる大型本ではなく、A5サイズの地図帳で自転車ツーリストも使っている人が多い。道路だけでなく美味しい店や景色の良い道も掲載されていて、見ているだけで楽しい。ただ、この地図は自転車族からすると大いなる欠点があって、道の傾斜はあまり考慮されていない。バイク乗りにはただ静かな良い道でも、自転車では辛いという道も多い。

京都市街を出た私は鞍馬・貴船方面へ進んだ。朝の涼しいうちに距離を稼ぎたい。貴船に近づくと緑が多くなった。頭上を覆う緑の笠と川沿いを抜ける風が気持ち良く、川の上に縁台が見える。さすがは京都の避暑地という風情で、朝から観光客が多い。

ちょっとして京都観光の気分を味わうと、そこから急坂が始まった。鞍馬や貴船は古来天狗が住むようなエリアだ。自転車に乗ることもできず、汗を滴らせながら進む。正直、この時は北海道どころか舞鶴までたどり着けるかが問題だった。3L以上あった水はみるみるうちになくなった。風邪と京都の灼熱地獄でもうよれよれだ。

仕方がないので横を流れる川の水を汲んで飲む。どのくらい綺麗かわからないが、その水は清冽で何よりの栄養補給になった。一息つくと再び重い自転車を押し始めた。

 

慌てて準備した装備はかなり膨大なものとなっていた。

サイドバッグ4個にテント、寝袋*1、登山用コンロ、鍋、雨具、ヘッドライト、米、2Lポリタンク、着替え、レインカバーなどを入れ、800mlアルミボトルと500mlペットボトルを自転車のフレームに付ける。さらに欲張って登山も計画していたので、20Lザックを後部キャリアの上に載せ、靴はレザーのトレッキングシューズにした。

今なら45Lのザック1つにまとまめることも可能だが、当時はパッキングの能力が乏しく、代わりに体力はあった。総重量は40kgくらいはあったと思う。なぜこんなことになったか。おそらく北海道に対する過剰な警戒心があったからだろう。何百キロも続く無人の荒野みたいなイメージを抱いていて、そこで立ち往生したらのたれ死んでしまうのではないかと、半ば本気で考えていた。

小心な冒険家は自ら用意した重荷で押しつぶされそうになり、北海道より前に北海道行きのフェリー乗り場にたどり着くことが問題となっていた。

 

日暮れ時に舞鶴港に着いた。空腹だった私は途中のマクドナルドでハンバーガーを単品で3つ買い、港で貪った。さすがに3つめには飽きてしまった。

たかがフェリーに乗るだけで大仕事だ。これからどんな困難が訪れるだろうか。私は、バイクで楽々と着た友人の脇で、心細くそれでいてヒロイックな気分に駆られていた。

*1:寝袋は札幌で購入した

北海道自転車放浪記-1

部屋の片づけをしていると得体のしれないものが見つかったりする。プラスチックの書類を入れるケースの中から箱に入った数珠が出てきた。どこで手に入れたのか全く記憶にない。

その箱の隣にもう一つ箱があり、開けてみると写真がバラバラ出てきた。一番上に鮮やかなオレンジ色の鮭の親子丼が写っている。見た瞬間、北海道の涼しげな風と当時の甘酸っぱい気持ちが甦ってきた。そしてもはやあの日に戻れないという一抹の寂しさが胸を突いて写真をめくる手が止まった。

 

大学時代は自転車に凝っていた。

きっかけは高校時代の友人が自転車で四国八十八カ所巡りをしたことだった。彼は夏に四国に渡り、3週間かけて自転車でお遍路旅をした。日焼けして帰ってきた彼と会い、「終電後の駅舎でホームレスと一緒に泊まった」とか「居酒屋でヤクザのおっさんから1000円餞別にもらった」という話を聞くうちに、同い年の彼がとてつもなく大きく見えるようになっていた。そして次の年、彼と他の友人たちと広島・尾道と愛媛・今治を結ぶしまなみ海道を自転車で渡った時、私も自転車で旅行をしたいという思いに駆られた。

そうは言っても休学して日本一周するとか、海外遠征をするといったことは自分とは全く世界だと感じていた。もちろん憧れはしていたが、根が小心にできている自分にはどだい無理な話で、図書館で九里徳泰さんや関野吉晴さんの本を借りて読んでいるだけだった。

ただ、もう身体は一人前。何もせずに大学時代を終えたくはないという思いだけはあり、自転車はその思いを少しは埋めてくれそうだと思っていた。

 

しまなみ海道の後、ジャイアント社の「グレートジャーニー」というモデルの自転車を買った。マウンテンバイクのフレームに太めの舗装道路用タイヤ、泥除け、前後キャリアと4つのバッグが標準装備されている。これら全てで定価は80000円台だった。*1

通常、ツーリング用自転車は自分で自転車をカスタマイズして構築する。そのため全てパッケージされていたこのモデルは邪道ではあり、誰かのブログに「この装備で8万円台という値段は、少し詳しい人なら手を出さないだろう」という不吉な文言が掲載されてた。

確かに自転車と前後キャリアとバッグを4個買うだけで通常なら15万円くらいはしてしまう。8万円といのは当時としては(今でもだが)かなりの価格破壊だった。件のブログを書いているのは自転車屋さんで、市場を乱すこのような商品は好ましくないのかもしれない。しかし、市場と言っても自転車でツーリングをするのは金はなくても時間がある学生に限られており、私は一も二もなく飛びついたのだった。

 

北海道を目指したのは4回生、就活を終えて大学最後の夏だ。

北海道へは大学で同じ学科の同級生と行くことにした。彼はバイクで私は自転車なので時々待ち合わせるくらいだろう。彼は誰もに好かれる快活な男であったが、彼のバイク乗りとしての技量にはやや疑問があった。彼は教習所での検定の際に転倒して足を骨折、その後しばらく松葉づえをついていた。さらに足が癒えてから臨んだ検定ではカラーコーンにあたって検定中止。3度目の正直でようやく中型2輪の免許を手にした。

彼も最後の夏は記憶に残る大き目のことがしたかったようだ。この夏が終わると何かが終わる気がした。二度と取り戻せない何かが。

いったい何が?

2006年8月、私は北海道に向かった。

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*1:2005年当時の価格。その後モデルチェンジを繰り返し、2017年まで販売されたが、翌年惜しくも生産終了。コスパ最強なので、北海道に来る自転車ツーリストの半分はこのモデルだったという話もある。