クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

譬えの妙

「この前〇〇君と飲んだんだけどね。軽いね、彼。スナック菓子みたいに軽い」

同期入社の奴と昼食を食べていた時に出た何気ない話題だった。この話にウケつつも、「スナック菓子」という譬えは秀逸だなとやけに感心してしまった。

その〇〇君という男は、特に女を追い回すわけでもなく、チャラチャラと着飾るわけでもなく、メガネをかけた少し神経質なルックスで、初対面ではとても「軽い男」とは思えない。しかし、会話していると見た目の印象は消えてくる。相手の話を聞いているようで聞いていない。

「そうですね!そうですね!」

と愛想よく相槌を打つのは、理解していることの証ではなく、ほとんど生体反応に近いのだ。

見た目は嵩があり、中身はスカスカしたスナック菓子はまさに譬えの妙を感じる言葉だった。

 

ユーモアに満ちた文学作品に譬えは必須要素となる。

夏目漱石吾輩は猫である』の一節。

「しかし蒲鉾かまぼこの種が山芋やまいであるごとく、観音かんのんの像が一寸八分の朽木くちきであるごとく、鴨南蛮かもなんばんの材料が烏であるごとく、下宿屋の牛鍋ぎゅうなべが馬肉であるごとくインスピレーションも実は逆上である。」

何を言っているのかわかりにくい。わかりにくいが何となくわかるし、何となくクスクスとなる。インスピレーションは逆上の変名だとしている一方で、全く似て非なるものだとも言っているものと私は解釈している。そして作者の漱石先生も逆上していると。

ただ、譬えに種明かしは不要だ。種は読者や聞き手が自分で発見するから楽しいのであって、演者がそれを奪ってしまうと価値を半減させてしまう。

 

山友達とのLINEのやり取り。

「(写真の人の中には)ただのオッサンに見えるけどスーパー山屋がおる」

「どのくらいスーパー?」

「どのくらいスーパーか考えた結果...

山野井さんのような神クライマーが東京スカイツリーだとすると、

神戸のポートタワーくらい。

私は電柱くらいかな」

これまた秀逸な譬えをする友人がいる。

厳冬期・手袋再考

年明け早々に凍傷になってしまった。

八ヶ岳へ行き、当初は阿弥陀岳北稜を目指したものの、深雪で断念。一般ルートからの赤岳に転進するとやけに寒い。指が痛いので、懐に時々入れながら歩いていたが、下山しても指先が冷たいままだった。この時は防寒テムレスという冷凍庫作業用の手袋と夏にも使っているトレッキング用手袋の組み合わせ。前日が妙に暖かかったので油断したのが原因だ。

 

1週間を経ても右手の中指と薬指、左手の中指と薬指、人差し指が痺れていて、中でも右手の中指がやや変色していて、キーボードを打つにも不便している。指全体が変色したり、水泡ができたりはしていないものの、これ以上酷ければそれに近い状態になっただろう。

以前、手袋についての記事を書いたが、もはや失格だ。ここは謙虚に手袋について考え直す必要がある。

 

yachanman.hatenablog.com

 

 今は凍傷になっといて何を偉そうにという感じだ。とにかく再考しなくてはならない。

 今まで使っていた1番分厚い手袋はブラックダイヤモンドで、インサレーションにプリマロフトという化繊が使われていて、手のひらはレザー。暖かいといえば暖かいのだが、人差し指が中指以下の指と分かれている。この手袋の場合、行動を開始してから、身体、二の腕、肘の順に温まり、手の甲から指先に温かい血が通う。中指から薬指、小指にグワーンと温かさが伝わり、親指、最後に人差し指に行く。

私のような冷え症は大変で、少なくとも30分は動かなくてはならないし、一度温まっても身体を止めて息を整えたり、クランポンの紐を締めていると、人差し指からグワーンと冷えてしまう。


そこで、今回はミトンにすることにした。人差し指だけ特別に頑丈にならないことには危ない。そして、中綿は未脱脂ウールに。この組み合わせは山岳ガイドの方の意見を参考に。

写真で撮るとこんな感じだ。

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アウターはヘリテイジのゴアウィンドストッパー。完全防水ではないので、水に浸けたりしたらまずいけど、最近はミトンのオーバーグローブそのものがほとんどない。私が探した中ではMt.スポーツ石井に1種類、カモシカスポーツに1種類(ヘリテイジはカモシカスポーツのオリジナルブランド)で、バリエーション豊富なはずのモンベルは一体型で1種類だった。人差し指分離型はイスカのものや、モンベルも出している。

ちなみにヘリテイジを選んだのは、裾が長くて雪が入らないから。凍傷になった時はテムレスの隙間から雪が少々入ったということも原因としてある。


さて、中綿は未脱脂ウールにしてみた。これまでのプリマロフトと皮の掌の組み合わせはやや操作性が悪い。岩を掴むにはウールの方がいいかもと思ったわけだ。

買ったのはヒマラヤグローブというもので、編み方はわりとざっくりしている。モンベルのウール手袋でよく似たものもあるけど、それよりはフィット感が良かった。五本指を買ったけど、カモシカにはミトンタイプもあった。これも試してみたい気がする。

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最後にインナーとして薄手のメリノウール手袋を着ける。モンベルのもので、以前のモデルからは指先の強度が少し増した。

最初に買った10年前は数回で人差し指に穴が開いた。同じモデルを買った友達もやはりたちまち人差し指の先が出て、出た指先でスマートフォンをいじっていた。

今のは生地が強くなっているし、指先はスマートフォン対応だ。

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これらを装着して、先週大菩薩嶺に行った。まだ凍傷が治りきっておらず、すぐに指先が冷える。

感想としてはオーバーグローブにゆとりがあるので、中の未脱脂ウール手袋が少しカパカパする。逆に手が大きくてウール手袋のサイズを大きくしても大丈夫だろう。

操作感はミトンだろうと人差し指分離型だろうと変わらない気がする。そもそも人差し指を使って作業をすることなんかあまりなかった。

課題はクランポンの装着は頑張っても靴紐は結べない。靴紐が解けたらインナー手袋でやるか、未脱脂ウール手袋の状態で結べるかが問題だ。


今回は極端に寒いわけではなく、途中から暑くなってインナー手袋のみで行動したので、実験としては失敗だった。

3000n峰でマイナス10℃くらいで使わないと意味がない。


ちなみに凍傷になるとどうなるかを説明しておこう。

まず現場では指先が痛くなる。痛い次は痺れてきて、徐々にツンツンしても感じなくなる。下山した後は、とにかく元に戻らない。通常下山して暖かいところに行くと血が通いだすものなのに、死人のように冷えたままとなる。そして軽い症状の指は痺れるような感覚がずっと残り、よりひどい指は触れても感覚がない。

私の場合、日常で困ったのは、ボタンを留められないことと、キーボード操作がしにくいこと。触れても感じないので余計に厄介だ。特に今回は右手中指がひどいので、UとIとOという母音ボタンが押しにくくて不便。

 1ヶ月を経過しても指先に少し痺れた感覚が残り、一番症状のひどかった中指は爪全体が白くなっている。


今回は本当に愚かな真似をした。くれぐれも指は大切にしようと胸に刻んだ新年である。

お城スコープ

先日、高知龍馬マラソンのついでに高知城へ寄った。マラソンの直後なので足が痛い。先々月はやはりマラソンで爪がはがれ、先月は山で凍傷になり、今回大きな怪我はないものの、忙しい身体だ。

高知城高知県庁のすぐ裏にある。市中を見下ろす高台で、まさに一等地で、高知滞在の最終日は最も天気が良く、青空がのぞいていた。

 

これまで気が付かないうちに城にはずいぶん行っている。知らない町を観光するのにまず手ごろだ。そんな観光旅行の中で印象に残っている日本の城を紹介したい。

 

1.犬山城

8年ほど前に思い付きで名古屋へ行った。単に「名古屋って行ったことがない」というくらいの理由だったのでさしあたっての目的地はない。仕方がないので、名古屋から熱田神宮へ走り(自分の脚で)、そこから桶狭間古戦場に行った。テーマは織田信長である。午前中で「桶狭間の戦い 」は終わってしまったので、今度は電車に乗って犬山を目指した。

 

犬山城織田信長の叔父・信康が砦を改修して築いた城である。その後、豊臣時代にさらに改修されて現在の姿になった。木曾川の畔の丘に建っていて、河原から見ると美しい天守閣だ。

風光明媚なこともさることながら、この城が復元ではないこと、そして実戦で使われているところがいい。機能美というのだろうか。木曾川方面は断崖で、反対の城下町側は開けているものの、天守閣に至るまでは右へ左へ道が曲がりくねり、いかにも敵を迎撃するという雰囲気である。

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川沿いに立つ犬山城


 

 

2.熊本城

関西で城と言えばやはり大坂城。城の主要な部分は再建だし、石垣も建造当時の豊臣時代ではなく、江戸時代に入ってからものではあるが、やはり名城たる所以はその規模と実力にある。規模は今でも大阪城公園が2km四方くらいの面積を誇っている。しかし、当時はさらに外側に防衛線があった。

大坂城の南に真田山公園というところがある。中には野球場、テニス場などがあり、緑の少ない大阪にあっては珍しいエリアだ。真田山の名称の通り、有名な真田信繫(幸村)の「真田丸」は公園からすぐの大阪明星学園あたりにあったとされる。ここは大坂城の南端からさらに2kmも離れたところで、そこが大阪冬の陣の際の最前線となっていた。当時の大坂の町は巨大な城塞都市だったと言える。

 

思わず力が入って大坂城の話を長々したけど、熊本城である。

 熊本城の初代城主は豊臣秀吉の子飼いである加藤清正で、熊本では治水などの行政も含めてすべて清正公がやったことになっている。このあたりは山梨における武田信玄と似ている。

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熊本城は豊臣秀吉による九州征伐もすっかり落ち着いた頃で、実戦には使われなかった。それでも城攻め、築城の名手、秀吉の弟子としての本領を発揮した石垣は見ごたえがある。石造りの街に迷い込んだような感覚になる。攻め入っても、たちまち石垣に包み込まれて、どこからともなく降り注ぐ矢や弾で討ち取られるのは必至だ。

 

熊本城が築城された後は加藤氏から細川氏に城主が変わったりはするものの、天下泰平の時代が続く。したがって歴史の遺物として実戦で使われることもないかに見えた明治になって急遽重要な役割を担うことになる。

鹿児島で蜂起した西郷隆盛の軍勢に対し、政府軍が立てこもったのが熊本城だった。わずかな軍勢で薩摩隼人を迎え討つことになった政府軍は籠城するしかない。籠城側は攻め手の3分の1未満で、士気もさほど高いわけではないのだが、そこを撃退したのは熊本城である。西郷隆盛は政府軍ではなく加藤清正に破れたと語ったという。

熊本城は200年の時を経て本領を発揮した。

 

 

3.??城

さて、高知城はどうだったか。わざわざ高知まで行ったからには三枠目に入れるのかというと、すっぱり外すのである。高知城山内一豊関ヶ原後に長曾我部氏に代わって土佐に入り、築城したもので、以降幕末の山内容堂の時代まで支配は続く。つまりこの城は山内家の象徴ではあっても戦闘に使われてはおらず、石垣もいわば飾りである。

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姫路城や彦根城松本城も現存する名城として名高い。しかし、天下泰平の時代に造られたという意味では殿様の余興と言えなくはない。結果的とはいえ、時代に迫られた建造でない。松本城北アルプスのコラボは山屋としてはなかなかの絵なのだが。

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それでは第三の城に何を選ぶか。岩殿山城大月駅から見える高台にあって武田勝頼の最期とも相まって神妙な気持ちになる。雲海で有名な竹田城にも行ってみたいし、丸亀城の石垣も立派だと聞く。

もう一つの城を探しにまた旅に出たい。

コロリ・コロナ伝染病談義

口を開けばコロナである。電車に乗ると時差出勤やテレワークを行うようにとのアナウンスまで聞かれるようになった。

1ヶ月くらい前だろうか。実家の母親から「マスクが爆買いされていてなくなっているらしい」とのLINEメッセージがあった。受け取った私はテレビなし、新聞なし、ネット少々の生活なので、「なんのこっちゃ」と思っているうちに本当に店頭からマスクが消えていた。巷ではアルコール消毒液なんかも高騰しているらしい。当時を知らないがオイルショックの時のトイレットペーパー騒動みたいに感じる。

そんな能天気なことを書いていたら怒られそうだ。会社では「パンデミック」なんていう物騒な言葉も聞かれ、いつの間にやら騒動になっていた。セミナーなどの人の集まる会合は軒並み中止。国内の出張も自粛。東京マラソンの一般参加も中止。東京というのはいったん騒ぎが始まると大変なのだ。

 

人類の歴史は9割方が飢饉と疫病である。これらが解消されてきたのはここ数十年に過ぎない。

最大のパンデミックと言えば中世ヨーロッパのペストだろう。ヨーロッパ史には詳しくないのだが、人口が減少するまでになったというからすごい。しかもペストは空気感染するので、瞬く間にヨーロッパ全土に広がり、当時の医療はなすすべがなかった。人々は感染を防ぐため、患者を家に閉じ込め、場合によってはそのまま焼いてしまったという。

 

日本における伝染病としては天然痘が有名だ。奈良時代に大陸から持ち込まれて大流行している。当時の最高権力者である藤原不比等の4人の息子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の全員が天然痘にかかって死亡している。新種の病気に対しては抵抗力がないせいか流行しだすと死者が多かったようだ。

天然痘はその後も定期的流行し、伊達政宗などもこれによって片目を失明した。日本において天然痘の猛威が去るのは明治期に入ってジェンナーの種痘技術が普及したことによる。『吾輩は猫である』で「あらゆるあばたが二の腕に立ち退きを命ぜられた昨今」とあるのは種痘によって疱瘡(天然痘のこと)に罹り、顔に痕が残るようなことがなくなったことを指している。

 

幕末にコレラが江戸で大流行した際も人々は極力対人接触を怖がり、銭湯などからは人が消えたという。みんな垢が溜まっても我慢をして引きこもっていたのだろう。当時は「コロリ」と呼ばれていたらしく、なんだか名称までよく似ている。

今回のコロナウィルスが拡散するかどうかはこの1・2週間が山場と厚生労働省は発表している。本当にそんな短期間で決着するのかわからないけど、決戦の時なんだそうだ。

ではみんな外出禁止にして引きこもってしまえばいいと思うのだが、そんな指示を出して経済が悪化したとか言われると嫌だから政府も公式には発表しない。会社も消毒液を置いたり、時差出勤を勧めたりで効果のほどはわからなくても「最大限の努力はした」ということにはしたいらしい。

今と昔の伝染病に対する違いは直接的な命への危機感だろう。早い話がが自分が「死ぬかも」と感じることである。大半の人は口では「危ない危ない」と言っていても「死ぬ」とは思っていないし、ひょっとしたら「罹るかも」とも思っていないかもしれない。

防止する側の狂騒も誰かに対する「演技」のように映っているのは私だけだろうか。

脚フェチ

真面目な話の後にくだらない想念というか雑念について書いてみたい。

今年の高知龍馬マラソンでかれこれフルマラソンは3回完走した。マラソンを走ったことのない人には「走っている間は退屈でしょう?」と聞かれることがある。おっしゃる通り退屈な時もあるし、退屈とか考える余裕もないほど疲弊している時もある。ただ、今回のように天気も悪くて景色も楽しめないといろいろな考えが去来するのが常となる。

 

走っているときに何を考えているかと言えば、「あの人走り方が変だな」とか「この人は脚がしっかりしている。まだまだ余裕だろうな」とかで、ランナーの品評を行っている。特に女性ランナーは少ないので、どうしても暇つぶしにチラチラ見てしまう。見ると言っても容姿の品評ではなく、もちろんランナーとしてで、走るフォームや脚部の筋肉で色気も何もない。

私のフルマラソン完走タイムは3時間半ばくらい。まあまあ速い方ではあるものの、サブ3(3時間切り)など到底及ばないレベルで、後半はヨレヨレでゴールするのが毎度である。まず大したことない。

ただ。今回は女子の記録は10位で3時間15分だったことからすると、私の周囲にいた女性ランナーはかなりの脚力である。そんな健脚女子を眺めるのは暇つぶしにはもってこいなのだ。

 

今回、高知龍馬マラソンの際はスタート当初から気になる女性がいた。少し茶髪のポニーテールで、背は165cmくらい。顔が小さく、全体が細身。いかにもランナーだ。

スタート当初、彼女が先に出た。ストライドは変わらないものの、走り方に勢いがある。ただ、10kmくらい食らいついていたところで私が抜いた?彼女の脚は上半身と同様に華奢で、パワーは少し足りないようだ。

20km。私がスピードを緩めると、ブルーのTシャツを着た彼女がポニーテールを揺らせて私の前に突如現れた。私が途中で用を足したりしたことを考えてもかなりのスピードだ。

負けないように食らいつく。一概にも言えないが、男子に比べると女子の方がペースに安定感がある。着いて行くなら女子の方がいい。このカッコイイ女子について行けないなら自分のペースが落ちている証拠だ。

そこから十数キロは一緒に走ったと思う。細身で脚が細くてカッコいい。贅肉はなく、余計な筋肉もない。走っていると「お姉ちゃん頑張れ!お兄ちゃんも頑張れ!」と声がかかる。

 

どうも山やランニング中に関係なく他人の脚を見る癖がある。男性は短パンというケースが少ないので、多くの場合は女性ということになる。なんだか変質者のようであるが、いやらしい目ではない(と思う)。

世間では「大根足」とか言って、足が太くなるのを忌避し、モデルさんのように細いのがいいと思っている人が多いようだ。自転車雑誌などにも「自転車に乗りすぎると競輪選手みたいなゴツい脚になってしまいませんか?」という質問投書が常時あって、みんな細い脚に憧れているんだなあと感じることがある。ただ、私に言わせれば現代人の脚は細すぎる。街中はエスカレーターだらけで歩かなくても移動できるし、都内はどこも10分以内に地下鉄の駅がある。単に細くするだけなら簡単だ。

一方でゴツくなるのは難しい。4年前に行った熊野古道小辺路で会ったおばあさんの足腰がすごかったけど、あれくらいになるためには材木や鉄のストーブを担いで小屋を建てるしかない(そのおばあさんは自力で材料を運んで小屋を建てた)。

そういうわけなので、都会では適度に鍛えれば適度な脚になれるというのが私の持論である。そしてマラソン大会の上位組には適度な脚がそろっている。

 

コースは仁淀川の手前を折り返す。

折り返しの手前で私は彼女を抜かし、後ろを気にしながらそのまま走った。折り返していつすれ違うか見ていたら500mくらいは離れていて、かなりペースを落としていた。私より速い女性ランナーはみんなガッチリした下半身なのに対して彼女は少し線が細すぎるようだ。

私はと言うと、そのまま足が攣りそうになりながらも最後まで歩くことなくゴールできた。ただ、これは100%が練習の成果というわけではない。私はその脚に抜かれないように走ったに過ぎない。

地方マラソンの地域活性は

高知龍馬マラソンに行ってきた。本当は雨で辛かったとか、鰹が美味かったとかそういうことを書こうと思っていたのだが、ちょっと気になったことを一つ書きたい。

 

走っていると、沿道で地元の人が雨なのにずいぶん出て応援してくれる。これはどこのマラソン大会でもわりと恒例になっていて、「ガンバレー!」とか「あと5キロ!」と声を掛けてもらうのは力になる。ただ、時々距離を間違えていて、「あとたったの5キロ!」と言われて、実は7キロあったり(40kmからの2.195を忘れている)、「もう坂はないよ!」と言われた直後に急坂が現れたりして愕然としたりする。

今回、他の大会ではない呼びかけは「頑張れ!東京!」とか「大阪も頑張れ!」というものだ。これはゼッケンにどこから来たのかが書いてあるからで、応援している側も「みんな、頑張れ!」じゃ気が利かないので、そういう呼びかけがわりと多い。

そんな中で、「高知に来てくれてありがとう!」なんていう呼びかけもあった。思い込みかもしれないが、悲痛にすら感じる呼び声だった。

 

国内旅行で行きづらい都道府県は沖縄という橋のつながっていない県と宮崎、高知だ。これらに最短でアプローチするには飛行機に乗る必要がある。行っても県内を動くにはレンタカーが必要になるので、特定の目的がないと行きにくいところだ。大会キャッチコピーも「わざわざ高知で走ろう」となっていて、やや自虐的になっているとも言える。

日本中をトンネルを掘り、橋を架け、空港を作ることで、日本全体を一体化させる。田中角栄日本列島改造論は地方を都市と結びつけることで、地方を発展させ高度経済成長以降の過疎と過密対策となるはずだった。しかし、豈図らんや公共事業によってもたらされたのはさらなる過疎である。巨大公共工事によって産業は育たず地方は自活の道を失った。自活、そして自力での発展のない地域から若者は去るしかない。地方のピカピカは、所詮都会のチカチカでしかない。


高知が正確にはどうかわからない。

ただ、「高知に来てくれてありがとう!」は胸に響いた。都会にいることが幸せか、地方にいることが幸せかはわからない。

ただ、地方マラソンの都市民誘致には、少なからず都会への憧れを感じた。

石川直樹さんの話

石川直樹さんの講演会に行ってきた。

わりと訥々とした話し方で、スピーチが上手とは感じなかった。ただ、その話し方に慣れてくると、面白い世界観を持つ人だと感じるようになってきた。

以下、興味を持った話と感想を書いてみた。

 

1.『青春を山に賭けて』

会場が東京都立図書館ということで本を軸に据えたトークだった。石川さんは昔から本の虫だったらしい。その中で世界を旅したいと考え、高校生でインド・ネパールに向かい、ヒマラヤを仰ぎ見る。そこで登山をしてみたいという気持ちが芽生えた。

『青春を山に賭けて』は植村直己の代表作である。無一文で英語も話せない青年がアメリカに旅立ち、そこからヨーロッパ、アフリカ、ヒマラヤ、南米を巡って各地の山に登る。しかし、この本はただ山登りを主眼としたものではない。金も技術もコネもない一青年が日本を飛び出して世界を切り拓いていく物語である。

この本に影響されて登山や世界放浪を始めた人はどのくらいいるだろう。船賃を払ってしまえば無一文になる状況で海外に出てしまい、不法就労で捕まって国外退去となるのは明らかにイケナイ人である。角幡唯介さんが「悪性のロマン」と評していたが、まさに夜に光る電球のように若者たちを引き寄せ、人生を狂わせてしまっている。

 

ちなみに石川さんは日本山岳会の主催するマッキンリー(現デナリ)に気象測定機材を運び上げるプロジェクトに潜り込み、初の高所登山を経験する。そして「七大陸の最高峰を最年少で登頂する」という課題に挑むことになる。

 

2.地図をひっくり返してみる。

富山県庁で南が上を向いた地図が売っているらしい。なるほどその地図では石川県の能登半島くらいが日本の真ん中の上にあって、富山県が日本の中心に位置している。その地図を見ながら、石川さんは「この地図を見ると日本海がまるで湖みたいで、大陸と日本の文化的なつながりが見える。」と語った。

なるほど面白い。こうして見ると日本が島国などではなく、東アジアの文化圏と密接につながっているのは明らかだ。しかも、朝鮮半島方面、サハリン・アリューシャン列島方面、沖縄方面など複数の入口があり、入口によって多様な文化が形成されている。

石川さんは「ぼくは登山家ではありません」と断言している。確かに先鋭的な登山者ではない。しかし、だからこそ、作家、写真家、登山家としての活動を通して人類の「文化」が見えてくるらしい。

 

3.43歳

これはあくまで話の脇道。

石川さんは今年43歳になる。43歳というのは冒険業界では鬼門となっているらしい。先に挙げた植村直己星野道夫、長谷川恒夫などが遭難している。最近では谷口けいもこの歳で亡くなった。角幡唯介さんが雑誌『昴』に書いていたらしく興味を持ったと話していた。

冒険というのは「危険を承知で行うこと」である。したがって、続けると死ぬ危険が高まる。ところが冒険者は年齢を重ねるとともに以前の行為より高いレベル、言い換えれば死にやすい活動に踏み込むことになる。その一方で加齢とともに体力は落ちていくので、その損益分岐点が40代前半にやってくるとも考えられる。まあ、上記の人の中でも星野道夫はカムチャツカで熊に襲われてだし、決して体力云々と関係ないのかもしれない。ただ、一般的な厄年と同様に43歳が石川さんにとっても験の悪い年に感じられているのかもしれない。

 

4.ヒマラヤの人々

 最後に直近のK2、ガッシャブルムの登山が話に出てよかった。いくら本人が登山家ではないと断言していてもヒマラヤの話は聞いてみたかった。

ヒマラヤと一口に言ってもエヴェレストで有名なネパールエリアとK2に代表されるパキスタンのバルトロではかなり距離がある。今回の話はバルトロで、こちらには山岳民族のシェルパ族はいない。現地の人をポーターとして雇って、物資を運び上げ、登山に備えるわけだが、ポーターはスニーカーかサンダルくらいでベースキャンプまで登ってくるらしい。登山者よりすごい。服部文祥さんもそれを言っていた。

登山は結局、人の可能性を知る行為なのかもしれない。無酸素でどこまで登れるか。どれだけ装備をなくして登れるか。どれだけ危険に近づいて登れるか。それぞれの行為に究極的な意味はなくとも、人としての可能性を知ることができる。立派な登山靴を履いた横にゴム草履の人がいればなおさらだろう。


まとまりのない話になった。

とにかく旅に出たくなるような講演だったことは間違いない。私も今度はどこに行こうかな。