クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

就活とバンジージャンプ

2018年の採用活動が始まったらしく、土曜にもかかわらずリクルートスーツ姿の就活生を見かけた。

人生で二度としたくないこととして私は就活を挙げる。はっきり言って私は就活の落ちこぼれだった。

弱小大学の学生だった私は三回生の終わりからなんとなく就活を始めた。会社説明会に出て、エントリーシートを書き、面接を受ける。なんとなく就活本を読み、なんとなく面接を受ける。こんなやり方でうまくいくわけもなく、なかなか内定は出なかった。

就活の苦悩は正解がわからないことにある。採用担当者から「残念ながら…」と言われても、果たしてどうすればよかったのか皆目見当がつかないのだ。

「前回は正攻法でダメだったから、今回は奇襲で行こう」と戦略を変更するが、結局どちらもダメでますます迷走することになる。

 

中学生の頃、好きだった日本史の教師が突然「東南アジアにはバンジージャンプが成人式の民族がいるらしい」という話を始めた。

「櫓に登って飛べへんかったら、また来年なーってなるらしい」

これはバヌアツ共和国のある民族の風習であることを『世界ふしぎ発見!』で知った。

その教師は時折そのような雑学を挟みながら授業を進めていて、我々は結局授業よりそのような知識ばかり身につくことになる。

バンジージャンプが成人式ということのおかしさは、我々にとって無意味なことに多大な価値を置く民族がいるということだ。飛び降りたら成人と認められ、ただ高所恐怖症なだけで一人前とみなされないのである。この理不尽を淡々と受け入れている人々がいることに中学生の私は衝撃を受けた。

さて、日本はと言うと成人式はただ地元の公民館などに集まり、地元の市長や名士の挨拶を聞くだけのものだ。あれで新成人になったと自覚する人間はどれほどいるだろう。

日本人が本当に成人になったと自覚するのは就職したりして自分で所得を得るようになることではないなだろうか。その意味では就活こそまさに成人式と言える。

就活で展開されるのは、エントリーシートの作成やグループ討議、面接などである。採用する側には優秀な人材を見極めるという意味のある行為かもしれない。しかし、試験される側は内定が出るまで何も成果物を得られない。最終面接まで行っても不採用の一言でそれまでの過程は雲散霧消してしまうのだ。

就活とバンジージャンプは無意味な行為を行うという点では同じである。おそらく、成人とは無意味な行為を他人の指示によって行わなければならないという事実を受け入れることにあるような気がする。