クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

開聞岳―日本最後の地

少し前の話になる。

 

長い坂を下ると波の高い海と端正な開聞岳が現れた。空は白く曇っている。

 

 2016年3月、私は鹿児島で一人旅をした。その初日は友人に勧められた知覧の特攻平和会館に訪れた。

 特別攻撃隊、通称「特攻」。片道燃料で250kgの爆弾とともに敵艦と刺し違える。敗色の濃くなった日本軍の取った捨て身の作戦である。知覧からは全特攻1036名のうち半数近くの439名が飛び立った。

 平和会館には特攻機の模型や軍服などもあるが、展示品の主は隊員たちの遺書である。平日にもかかわらず老若男女多くの人が訪れていた。みな一様に遺書に目を走らせ、涙を浮かべる人もいる。

 

 これまで私は意識的に特攻隊の歴史に触れてこなかった気がする。ある時は英霊として、そしてある時は狂信的な国粋主義者として、戦後の第二次大戦に対する勝手な解釈が常に付きまとっていたからだ。大学では歴史学を専攻したものの、特攻隊については他人の評価を介さずに向き合う自信がなかった。今回、平和会館に向かったのは開聞岳に行くついでには違いなかったが、年を経てようやく青春を戦争に殉じた彼らに向き合う準備ができた気がしたからだった。

 外は土砂降りだ。他に行く気もしないので丹念に遺書を眺めた。みな非常な達筆である。多くは両親への感謝、敵艦撃破への意気込みを綴っている。

しかし、その中に見えたのは決して英雄でも狂気でもなかった。そこにあったのは二十歳前後の当たり前の青年の姿だった。

 

特攻隊は志願制だったが、戦況が緊迫した中で拒否できる状況ではなかったとされる。特攻への志願を聞かれた段階でそれはすなわち死の宣告に他ならなかった。現代人が80年もの歳月をかけてのんびり死と向き合うのに対して彼らにはわずかな猶予しかなかった。そのわずかな期間で自らの死とこれまでの生を必死で肯定しなければならない。

ある者は両親や家族への感謝を述べて自らの生の意味を伝えようとした。ある者は敵艦撃破によって自らの死を意味づけした。老人の遺書と異なるとすれば、彼らは残された者に遺す言葉を書いたというより自らの生と死に折り合いをつけるために書いたと思えることだ。

その中でなぜか記憶から消えない遺書があった。

閻魔大王、台帳開いて待っておれ」

 太字で紙いっぱいに大書してあった。これを書いた主は一体どのような心境だったのだろう。他の者が家族に最後の言葉を告げている中で何を残したかったのか。

 彼は眼前に突きつけられた死に正面から向き合うことができなかったのではないだろうか。その自分に無理やり現実と対峙するようにこれを書いたのだろう。

 

 平和会館を見学した翌日、徒歩で開聞岳に向かった。麓で一泊し、さらに翌朝開聞岳に登った。早朝、頂上から見る金色の海は美しかった。

 知覧から飛び立った彼らはここを最後の日本の地として沖縄の火の海に飛んだのである。まさに生と死の彼岸をこの開聞岳に見たのだ。

 自分はしっかりと自らの生を向き合っているか。ふとそう思った。

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