何かのテレビ番組だったか、ゴミ屋敷の清掃業者を取り上げていた。部屋の中にため込んだトラック何杯分にもなる大量のゴミを処分する。人が嫌がる仕事だけに報酬は高いという。
その中である部屋の主は大量のハンガーを積み上げていた。洗濯が面倒でクリーニングを利用していたらしい。ついでにハンガーを捨てるのも面倒で部屋中をハンガーだらけにしたようだ。
これを見て「クリーニング屋に行くのは面倒でないんだ」と妙に感心した。
私はクリーニング屋に行くのが面倒臭い。取りに行くのが面倒だ。都合がつかなくて、遅れて行くと「早く取りに来てください」と苦情を言われる。ますます憂鬱になって可能な限りクリーニング屋を使わなくなった。
こう考えていくと“面倒だ”と心理はゴミ屋敷の主と共通しているようである。ゴミ屋敷に一歩近づいたみたいで気味が悪い。
ちなみに私は外食も面倒くさい。面倒な外食をするくらいなら毎食自分で作った方がいい。作るのは慣れてしまえば面倒くささが軽減していくが、外食の心理的な面倒は減らないのだ。
世の中の多くの要素は“面倒”なために生み出されているような気がする。生産や流通の発達も人々が自給自足が面倒になったからだ。
服部文祥さんが「ズルしないで生きる」ことを著書で掲げていたが、「ズル」とは“面倒”を他人に引き受けさせることに他ならない。そして「ズル」をするために我々は「金銭」というジョーカーを切ることになる。
ある意味では金銭を使うこと自体が面倒の回避、ズルの容認であるし、自ら「面倒くさがり」を認めているのである。
『御伽草子』に「ものぐさ太郎」という物語が所収されている。
太郎というものぐさな主人公が落ちた餅も拾わずに横たわっているところから話は進展する。
物語が成立した室町時代は自給自足が基本の社会だ。当時と比較すると現代は餅を他人に拾わせるだけの社会かもしれない。
私たちが太郎を嗤うことはできない。