役員の退任慰労会があった。
さまざまな過去のエピソードより印象に残ったのは退任するその方が67歳だということだ。そしてこれまで仕事一筋で特に趣味らしい趣味もないらしい。
「余生を楽しむ」というが、楽しむものがないとなかなか難しい。特に酒だけが楽しみで、趣味などないとなると、これから見つけることとなる。
仕事が生きがいで、辞めたら余勢をかって次を始めるならそれもいい。ただ、あてもなく何かをするのは、氏名だけで目的の人を見つけるようなものだ。
とにかく元気なうちに探し出さなくてはならない。
友人の中に、三十代にしてリタイア後が楽しみという人がいる。余生ではなく、そちらがメインと意気込んでいる。そして来るべき日に向けて日々肉体の鍛錬を続けている。
どちらが魅力的な考え方かというと私は断然その友人の方だ。
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」は『平家物語』の有名な冒頭である。祇園精舎は古代インドの施設で、死を待つ人のための場だという。
「死を待つ」
小学生の頃、この説明を見た時は衝撃だった。自らの生命が尽き、土に環るのを待つ人がいるのだ。何のために生きているのか、その永遠の哲学的問いをあっさりと黙殺しているのである。
働くのも人生の目的の一つになり得る。しかし、自ら望み、自ら選んだ仕事ばかりできるとは限らない。サラリーマンは大概が会社を選べても仕事は選ぶことができない。
食べるため、生きるために働くというのでは、なぜ生きるかへの答えは陽炎のように遠ざかり、その問いすらナンセンスに感じるようになるだろう。しかし、その時われわれは祇園精舎に佇む1人となっているのかもしれない。
「明日からも遊ぶために稼ぎます!」
登山の帰り、そう言って別れた友人がいる。そういう友人たちが周りにいることに私は時々安堵を覚えるのだ。