クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

『大貧帳』と『紙の月』

週末は北八ヶ岳へ行き、鈍行で帰ってきた。茅野から中央線で八王子まで乗ると大概2回は乗り換えがあって3時間くらいかかる。最後の方はお尻のほっぺが痛くなって難儀だ。

そんなに辛いなら、特急「あずさ」に乗ればよいのではないかという声が降ってきそうだが、当然「あずさ」には特急券が要る。特急券にはお金が要る。金が惜しいのもあるが、払えないわけではない。では、なぜわざわざ私は鈍行列車で長距離移動をするのだろう。

 

お金について考えさせられる本を2冊立て続けに読んだ。内田百閒『大貧帳』と角田光代『紙の月』だ。

『大貧帳』は内田百閒のお金に関するエッセイ集である。内田先生は東京帝国大学を卒業し、いくつかの学校講師を兼務するというインテリだが、常に金欠だったようだ。しかし、このエッセイの中でなぜ貧乏なのかについての理由は最後まで明確にされていない。想像するに、収入の有無にかかわらず金を使い、あげく借金をし、借金の返済のために借金をする、ということを繰り返しているうちに、慢性的な金欠状態になったようだ。

しかし、「金がない。困った困った」と口では言いながら、逼迫した様子がない。破産するほどの過度な贅沢をわけでもなく、金がないからといって節制するわけでもなく、何とも言いようのない不思議な文章を綴っている。読んでいくうちに、お金がないというのは「天気が悪い」などと同じ自然現象のように思われてくる。現象だから恬淡として受け入れ、なければ借りて使い、できたら返しをひたすら繰り返している。まるで傘を開いたり閉じたりするように。

 

大貧帳 (中公文庫)

大貧帳 (中公文庫)

 

 

 

その後、いつもなら手を出さないであろう『紙の月』を読んだ。銀行のパート社員である主婦が、若い男と知り合うのをきっかけに顧客の金を横領し始める。最初はちょっと借りて返すつもりだが、散財と横領は徐々にエスカレートし、やがて破綻を迎える。物語は主人公の女とともに、その女を知る人々がそれぞれお金に翻弄される様も並行して展開されている。ストーリーそのものにリアリティーは乏しいが、金を弄び、弄ばれる人々の描写はなんとも巧みだ。

思わずうなってしまったのは、若いツバメと高級ホテルのプールで過ごすシーン。まだ二十歳そこそこのその男が太陽がパラソルからずれて眩しいとホテルのスタッフにクレームを付ける。時が経てば太陽は動くのだから、椅子を少しずれせばよいと、女は心の中で思う。それまで苦学生だった男の変化が生々しい。自分は客なのだから、そして金があるのだからこれくらいのことをさせても許されるという感覚。彼はそれまで金がないことによって縛られていた制約から解放された快感に浸りたかったのだろう。

登場人物はそれぞれがお金に翻弄される。お金を使う理由もそれぞれだが、軛から逃れた解放感と使ってしまったことによる罪悪感。毒と蜜を同時に味わううちにどちらの感覚も麻痺してしまっているように思える。

 

紙の月 (ハルキ文庫)

紙の月 (ハルキ文庫)

 

 

 

では、なぜ私はお金を使わず、鈍行でえっちらおっちら帰るのか。極度に自分に贅沢を許すことを恐れているのだと思う。生活水準は1度上げると下がらない。グリーン車ビジネスクラスのシートも1度使うとやめられなくなるという。私は1度でもお金の縛りから自分を解放した瞬間、元に戻れなくなることが怖い。『紙の月』の若者のように金の制約から解き放たれてた後、元の木阿弥になった時に再び自己規制をできる自信がない。お金がなくなるのが怖いのでなく、お金を使う感覚が麻痺してしまう方が怖い。

内田百閒のように「金は物質ではなく現象」と言える日が来るのだろうか。

 

ある週末、ジムでのボルダリングを終え、先輩の車で送ってもらっている途中、先輩が突然後部座席に座っているジュニアに言った。

「そっと後ろの車を見てみ」

ジュニアが言われた通りそっとリアガラス通して後ろをみると、「くくっ」と笑った。私も気になって振り返ってみると、そこには「お金がほしい」と書いてあった。