クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

タネと『第一阿房列車』

某新聞社の会社説明会で社員、つまり新聞記者がこのようなことを言っていたらしい。

「新聞記事はいい取材が全てなんです。美味しい牛肉はいろいろ味付けしなくても焼いてレモンと塩だけでも美味しく食べられます」

新聞という媒体は文字数が限られているし、文章力で補うことが難しい。この記者は素晴らしい取材がすべてだと言い切った。

北大路魯山人の『料理王国』を読んだら、奇しくも食通で知られる北大路魯山人も料理は素材がダメならいかに料理人が技巧を凝らしても無駄と述べている。料理人は素材の味を引き出すことはできるが、味を作ることはできないというのだ。文章のタネと料理が同じとすれば、話題と取材の吟味がすべてだと言える。

 

近頃『大貧帳』に始まって内田百閒にはまっている。内田百閒は東京帝国大学でドイツ語を学び、士官学校や大学でドイツ語講師として勤めている。さらに夏目漱石の弟子として芥川龍之介鈴木三重吉などとも交流のあるいわゆるインテリである。ただ、文章、特にエッセイは非常にユーモラスで、思わずクスりとくる笑いに満ちている。「クスり」というのがミソで、文体はあくまで真面目なので笑いを狙って書いているとは思えないのが百閒先生の持ち味だと言える。

阿房列車』は用もないのに列車に乗って旅をするという旅日記である。特に目的地もないし、各地の観光名所を行くわけでもない。石川啄木の故郷があると言っても素通りである。そのくせ国府津駅御殿場線に乗り遅れたと苦情を言っている。その時の目的地は沼津で、東海度線でも行けると言う駅員と、用もないが御殿場線に乗りたかっただけの百閒先生との会話は全くかみ合わない。

今でいえば「乗り鉄」といった具合だが、列車については汚いとか寒いとか言いたい放題で、どこまで行っても頓珍漢な旅をひたすら綴っている。ハッとする景色や旅情を感じさせる描写があるかと思えば、夜の列車で車窓から何も見えないと書いてあったりで、やはり何も目的がないことを再認識させられたりする。太川陽介蛭子能収が出演している「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」というテレビ番組が人気を博したが、あちらはあくまでミッションである。確かにミッションがあればそれを軸に出演者の場面が展開するし、視聴者も最後は達成できるかどうかに注目して見つづけることになる。テレビと言うものの性質を考えれば、用もなく電車に乗っている姿を撮っても番組にならないのだが、『阿房列車』はそんなことは百も承知とばかりにメディアのタブーを犯している。借金までしてひたすら列車に乗り、どこにも寄らずに帰ってくる。列車の移動するという本分をも無視した行為をひたすら繰り返している。

これが目的のある旅であれば全く違った風情になっただろう。『東海道中膝栗毛』での弥次喜多の目的はあまり知られていないがお伊勢参りである。ただの滑稽旅と思いきやこれまでの人生を振り返っての厄落としという重いテーマが底流にはあるのだ。それに対して『阿房列車』は目的がないことをテーマにしている。この時すでに内田百閒は文筆家として知られており、「ヒマラヤ山系」と呼んでいる編集者を伴って各地で接待を受けるが、これは本来の旅の目的ではない。名所・旧跡はあっさり見捨てるのだが、書くとなれば塩も付いていない握り飯を渡されたとか風呂の湯が熱いというだけのことも書く。シャツを裏返しに着る、ボタンを一つ掛け違えているだけで世界はたちまちユーモアに満ちていくことをこの本は示している。

 

例え話の上げ足を取るようだが、冒頭の新聞記者は牛肉と言えば「焼く」しか思いつかないのだろう。彼あるいは彼女にとって「いい肉」とは霜降りのヒレ肉であり、煮込めばうまく食べられる固い脛肉やスジ肉には目もくれないで記事となる話題を追いかけている姿が想像できる。もちろん新聞と言うものの特性を考えれば、じっくりと素材を煮込むような時間はないし、むやみに味付けはできない。一般大衆にとって重要なこと、興味深いことを取材するのが記者の務めというものだろう。

しかし、私は無数に転がる路傍のタネにこそ世の中に彩りを添える花を咲かせる力があると思うのだがどうだろうか。

第一阿房列車 (新潮文庫)

第一阿房列車 (新潮文庫)