クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

羽化登仙

今年は台風の当たり年となっている。まるで技巧派ピッチャーの投球のように日本列島の周りを西へ東へかすめる。

小学校の時に「日本列島は夏の間、太平洋高気圧によって好天が多いが、高気圧の勢力が弱まる9・10月ごろになると台風が列島を通過するようになる」と習ったが、最近は7月くらいから台風がバンバン接近し、常時台風シーズンとなっている。台風が来るとまずは交通機関が乱れる。利用者は文句を言うだけだが、担い手は大変だろうなと大変同情する。電車は架線トラブルやらがあって大変そうだが、飛行機なんかは飛んでしまうと静止できないのだからまた違った大変さがある。飛んだはいいが下りられないのはなんとも落ち着かないだろう。そんな阿呆なことを言ってみたが、現実に飛んでも下りられない飛行機など滅多にあたるものではないし、そんな状況を作るほど航空業界の方々は阿呆ではない。飛行機は世界一安全な乗り物となっている。内装はおおむねきれいだし、キャビンアテンダントは飛び切りの作り笑顔で迎えてくれる。貧乏性の私などはそれだけでとんでもない贅沢をしている気がして毎回どぎまぎしてしまう。

 

素敵な笑顔はいいのだが座席の広さは鈍行列車並に狭い。そしてまあまあ退屈である。ウン万円もかけての空の旅なので、暇をつぶすアイテムが多少は用意されている。まずは前の座席ポケットに入っている航空会社の雑誌。ちょっとお洒落な旅行雑誌なわけだが、サクッと読める記事が多い。サクッとはいいのだが、熟読にはならないのですぐにまた閉じる。去年大雨による振替輸送で初めて北陸新幹線に乗ったが、その時にあった雑誌は読ませるものだった。沢木耕太郎さんなど筆力のあるライターが多くてなかなか良かった。航空会社ももうちょっと頑張ってほしい。

あとは機内販売の広告があるが、あれを買う人がどのくらいいるのか甚だ疑問だ。アクセサリーくらいはともかく、防災用品なんか飛行機で買わんでもよいではないかと思う。ひとしきりツッコミを入れてまたポケットに戻す。

 

大概、ここまでで飛行機は離陸していない。飛行機は扉が閉まったら出発という体になるが、滑走路をウロウロしたり離陸待ちをしたりする時間がやけに長く感じる。とりあえず持参した本を取り出すが、離陸まではいろいろアナウンスが入って集中できない。

緊急時の対応についての案内が必ずあるが、真剣に聞いている人がどのくらいいるのかこれも気になるところだ。私が初めて飛行機に乗った6歳の時はそれはそれは真剣に前のビデオを見ていた。何しろ乗ったのは伊丹ーシカゴ間だったので、不時着は海の上ということになる。「滑り台を使って飛行機から下りたら飛行機からすばやく離れましょう」と言うが、海では走れないではないかと思ったら手元のしおりにゴムボートのイラストがあった。あんなボートで全員が無事助かるのだろうかと思って不安が余計に掻き立てられていたのだが、周囲は驚くほど平穏なままだった。

飛行機のあのアナウンスはなかなかみんな真剣に聞かない。真剣に聞かせるためには臨場感のあるドラマなんかを上映すれば効果的らしい。

副機長「機長!右エンジンから発火が!」

機長「何!ここは海の上だ。こうなったら海上胴体着陸させるしかない」

キャビンアテンダント「お客様、落ち着いてください!」

とかいうビデオを流せば乗客は「安全のしおり」をくまなく見るはずだ。そうなれば「不必要に不安を煽る」と非難が殺到することは間違いないが。

 

 いよいよ離陸となるといよいよ退屈なので、イアフォンで航空会社オリジナル・ラジオを聴き始める。

全日空にはないのだが、日本航空では落語・講談などを録音した「JAL名人会」 なるものがあって、なかなか楽しませてくれる。噺は頭出ししてくれないので途中から始まるし、機内アナウンスが入るたびに途切れるが、噺家もそんな状況を考慮したわかりやすいものをチョイスしている。中には、途中で機内アナウンスがあることを逆手に取って『機長の◯◯です。現在の高度は××フィート』と機長の物まねをを芸に組み入れたりしていて、テレビと違ったネタを披露していて面白い。落語は好きで、ラジオやCDで聞くことがあるが、噺家の身振りや表情の見えないとなかなか長い筋のものは難しい。この「名人会」は筋より、酔っぱらっていく様や早口言葉のような「声の芸」がメインとなっているが、狭い機内を忘れさせる内容で、夢中になって聞いているうちに身体は飛行機ごと宙に舞いあがっている。

 

 測ったことはないが、このラジオ番組はだいたい1チャンネルで40分から50分くらいだろうか。聞いているうちに飛行機は安定飛行に入って飲み物が配られる。

 数年前、頻繁に東京と福岡を往復していた頃、夕食を取る時間もなかった。まあ空港で「空弁」でも買えばいいのだが、大して美味くもないのにやたらに高いし、食欲もわかないのでそのまま飛行機に乗り込んでいた。

空腹プラス疲労。頭の中では先程まで聞いていた意味不明のIT用語が踊っている。ふわふわした精神状態の中で、飛行機は福岡空港の滑走路を走り博多の光の渦を飛び出して夜空の闇に溶け込んだ。しばらくして「お飲み物はいかがですか?」と鈴の鳴るような声が聞こえる。りんごジュースをもらってちびりちびりと飲む。朝ならコーヒーだが、夜はりんごジュース。ようやく頭の中でちらちらしていたアルファベットが去りりんごの甘みに安堵する。

日本航空が経営危機と呼ばれた頃、搭乗したらちょっとどぎまぎしたことがある。朝の便でいつものように「お飲み物は?」と聞かれて「コーヒーを」と答えると、カップにコーヒーが注がれ、「300円です」と言われた。一瞬理解できなかったキャビンアテンダントの帽子をも廃止した状況から事情を把握した。今更「じゃあいらない」とも言えず、素直に財布から小銭を出した。今はフリードリンクに戻っているが、企業の危機を垣間見た瞬間である。

 

空港業務にかかわる企業に偶然就職したが(あまり空港業務があることも、また興味もなかった)、やはり飛行機には電車や自動車にはない夢があるらしい。それは人は本来飛べないということから派生するのだろうか。空を自由に飛ぶ夢。

飛行機は世界を狭くし、人をあわただしく掻き立てると同時に人と心を宙に浮かび上がらせている。