本社が移転して、移転祝いにたくさんの花が届いた。
こういう場合の花は胡蝶蘭が大半となるのはどういうことだろう。私は別にこの花が好きではないので毎度不思議に思う。
贈り主もこの花が本当に好きなのだろうか。金額がそこそこ高い、花弁が散らないので掃除の必要がないくらいでこの花を贈るなら胡蝶蘭に申し訳ない。
そんなことを考えていると、総務の二十代の女性がお祝い品と見られる博多人形を運んできた。
花は贈り物としてちょうど良い。
何がちょうど良いかと言えば、散って枯れればなくなる。なまじ形あるものほどタチが悪い。
実家ではほぼ新品の紅茶セットやマトリョーシカ、陶器の巨大ビールジョッキ、凱旋門の形をした酒のボトルなどが所狭しと食器棚の中に飾られている。
祖母の家に行くと、アフリカだかメキシコだかの奇っ怪なお面が扉の上に飾られてあって、私たち孫、今はさらに曽孫を怖がらせている。
日本の応接間にモノが溢れるのは、その家の主が自ら購入するより、捨てにくい贈り物をして家中をモノだらけにする贈りお化けがいるからだろう。
困るのはこのお化けは完全なる善意を持ってやっていて、受け手も善意はありがたく受け取るからである。ただし、その善意の品は必ずしもその対価通り報われるとは限らない。
早い話が高い贈り物ほど捨てられず、もらうほど困惑するのだ。
友人の出産祝いに何か送ろうと言ったら、返ってきた答えは「ベビー服」だった。服、特に赤ちゃんの服など親の趣味である。そこに赤の他人が贈るのはちょっとプレッシャーだ。
贈ったはいいが、お気に召さず、そしてこちらが訪問した時だけ気を使って子どもに着せたりしないだろうか。もともと服選びにセンスを持たない人間はこういう時に苦労する。
いや、贈られる方はその苦労もわからないだろう。
そんなことを考えつつも先方の要請なので、無難なものを見繕って贈っている。
さて、件の博多人形を総務の女性が両手に抱えて私の脇を通り抜けて行った。人形は能楽の翁でニッカりり笑った顔で右手に扇を高々と掲げている。
やれやれこんなものはどこに飾るのだろう。
次の瞬間、「あっ!」という声とともにガチャっと音がした。
彼女は人形のケースの両側面を持って運んでいたのだが、ケースは枠にガラスと底板をただはめ込んでいただけで、運ぶ途中で底板が抜けたのだった。
ふと見ると、翁の顔が笑ったまま床に転がっていた。