週末の天気予報を見ると晴れが連続していて、おまけにくそ暑いときていた。暑いのは嫌いなので、山へ避難することにしたわけだ。唐突な思い付きなので、高い山は止して低山で、それなりに涼しそうという理由で雲取山にした。思えば無雪期に雲取山へ行くのは13年ぶりだ。
奥多摩駅に着いたのは6時30分。バスにはずらりと行列ができていて、さすがは東京だ、と思ったのだが何かがおかしい。そのバスには「東日原」と書かれていて、私の目指す鴨沢行ではなかった。鴨沢行のバス停に行き、時刻を確認するとなんと1時間後である。前日、突然決めたとはいえ迂闊だった。昨夜見た時刻表は平日用だった。
「どこ行くんだ?」
少し変わったイントネーションが後ろから聞こえた。見ると160cmもないくらいの小柄なオジサンが立っている。
「鴨沢まで」
「それじゃあ途中だな。俺は丹波まで行くんだ。乗っけてってやろうか?」
「いいんですか?」
「あんたは?」
オジサンは隣にいたお姉さんにも声をかけた。お姉さんは黒い中型のバックパックを背負っている。
「丹波まで」
お姉さんは少したじろいだようだった。まあそれはそうだろう。オジサンは凶悪そうには見えないが、綺麗とは言いかねるキャップの下に太い眉、皺の寄った顔で、こう言ってはなんだが気品があるとは言い難かった。
しかし、お姉さんの躊躇など意に介さない風に、「ちょっと待ってくれ」と言ってオジサンは自動販売機で缶コーヒーを買うと、「車はあのバスの前に止めてるんだ」とわれわれを誘った。
車は日産のMOVEで、こう言っては何だが、オジサンの雰囲気にはマッチしていた。荷物を後部に積み、私が助手席、お姉さんは後部座席に乗り込む。オジサンがエンジンをかけると、それまで聞いていたのだろうノリの良い洋楽が流れ出した。オジサンはわれわれを気遣って、少し音量を下げたが、このオジサンの見た目の雰囲気とは明らかに違う。
「どっから来た?」
私が住まいの場所を告げる。
「おー都会だねー。あんたは?」
後部座席に声をかける。
お姉さんの住まいは実は私と同じである。駅のホームで見かけて、ずっと同じ電車に乗って来た。駅でマットを付けたバックパックを見て「どこに行くのかな」と考えていた。
オジサンは特にその偶然には触れず、
「俺の生まれは神田なんだ。ただ先祖は秋田。秋田の武士なんだ」
唐突に語り出すので少し意表を突かれた。初対面の人に先祖の話をする人はなかなかいない。「へー」と返すしかない。
「定年まで働いて延長もできたんだけど、上司が嫌な奴でね。今はアルバイトしている。親戚の会社にも誘われたけど、しがらみが付いちゃうから」
「誘われるだけいいじゃないですか」
「横田の基地で働いていたんだ。上司はアメリカ人。最後のがとんでもない奴で、一度御殿場まで出張することになった」
「そういや御殿場に演習場ありますね」
「泊まりで行かせてくれるかと思ったら日帰りで、高速を150kmで飛ばしやがる。軍の車だからナンバープレートも特別で捕まったりしないんだ」
なんとも恐ろしい話。しかし実際そこで働いてないと知らない話だ。何の仕事をしているかわからないが、米軍に雇われていたのだから何らかの技能があったのだろう。
「嫁さんは今韓国に行ってるんだ。2泊4日で」
このオジサン、急に話題を変える。
「嫁さんは中国国籍で香港にいたんだ。イギリスか中国で選べて、中国を選んだ。英語、中国語、日本語ぺらぺらなんだ。俺も対抗しようと思って中国語やったけど、漢字が読めなかった」
「簡体字ですからね」
「中国語で私はウォ(我)って言うんだ。だけどダメだね。娘は3か国語しゃべるよ」
このオジサン、見た目に似合わず国際一家らしい。
「嫁さんの実家は◯◯(聞いたけど忘れた)というところなんだ」
「どの辺ですか?」
「省で言うと山東省。青島の近くかな。今はもうないけど凄い家で、日本名でトウエンメイという人の屋敷だったらしい」
「誰ですか?」
「トウエンメイっていう文筆家で、皇帝に逆らった人だ。トウは陶器の陶で、エンは燕」
陶淵明なら知っているが、漢字が違う。何より時代が古すぎる。陶淵明は西暦400年くらいの人だし、山東省なわけがない。よくわからん。
「年金もらうようになったら八丈島で暮らそうかと思うんだ」
「いいですねぇ」
「飛行機なら1時間半なんだ。娘がANAにいて往復で10500円くらいで行けるんだ」
家族にもそんな役得があるのか。
まとめるとオジサンは米軍基地で働いていて、奥さんは香港出身の中国国籍、娘はANAで働いていて、奥さんと娘は3か国語万能で、オジサンももちろん英語は達者。
聞けば聞くほどエリート一家であるので、そのオジサンの顔からは何気ない気品が感じられたかというとそうでもなく、見れば見るほどただのオジサンなのだった。
オジサンのおしゃべりは果てがなかった。
30分ほどのドライブで車は鴨沢に着いたが、停車するまで何か話そうとしていた。よほど話に飢えていたのかもしれない。
そうかと思うとオジサンは、私が荷物を後部から下ろすと車内から手を振ってさっさと行ってしまった。
長々と書いたのにまだ登山口に着いたばかりだ。