クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

Zenのこころ

ここのところスティーブ・ジョブズの伝記やPatagonia創業者のイヴォン・シュイナードの著書"let my people go surfing"を読んでいて気付いたのは、彼らは非常に'Zen'に興味を持っているということだ。

いや、彼らのようなビジネスの世界に生きる人々だけでなく、結構いろいろな職種の人が興味を持っている。沢木耕太郎深夜特急』でも「禅とは何か?」と尋ねられるシーンが出てくる。今日本人で禅に興味を持っている人より海外で興味を持つ人の方が多いのではないだろうか。


日本において禅は宗教に分類される。しかし、日本人以上に強固な信教を持つ欧米の人々を引き付けるのは禅の持つ哲学性とそれに加わる神秘性だろう。私は禅についての詳しい見識はないのだが、ふと大学時代の講義を思い出したので書いてみたい。

 

私は大学時代に史学というあまり実用の役に立たない学問をしていた。その大学の中世史の教授の専門は仏教史で、ざっくばらんな講義はなかなか面白かった。その教授は世界の憧れる日本の禅についてもざっくばらんに語っていた。

以下はその講義で聞いた内容だが、記憶任せなので内容は保証できない。


曹洞宗の開祖・道元は同じく臨済宗の開祖となる栄西とともに中国へ留学している。道元が中国の禅寺に入ると食事の準備をその寺の高僧が行っている。これを訝しんで道元は「こはいかに」と言ったかどうかはわからないが、その寺の者に尋ねたところ

「人の営みにおいて食事というのは大切なことです。位の高い僧が準備を行うのは当然のことなのです」

という答えが返ってきた。道元の頭の中には「食事の準備などは下働き」という認識があったのだろう。大いに恥じ入って考えを新たにした。

曹洞宗はただひたすらに座禅をする、いわゆる「只管打座」が注目されるが、人の生きるための営みを非常に重視するのだという。

 

さて、今一人、臨済宗開祖・栄西が日本に持ち帰った禅は哲学的な考察を行う「公案」である。

有名な公案に「瓢箪で鯰を押さえるにはどうしたら良いか」などがある。これは水墨画「瓢鯰図」として禅僧・如拙が描いたことでも知られる。また他に有名な公案として「両手を叩いた時に音が発するのは右手か、左手か」というものもある。

公案に明快な解答はない。「瓢箪で鯰をどつきまわす」とか答えたりすると師匠にどつきまわされる(これは冗談)。

「両手が衝突したときに空気を振動させてその振動が鼓膜を震わせて聞こえる」なんていう科学的な答えを期待されているわけではない。

「まあこれを師匠から聞かれた弟子は考えるわけですな」

中世史教授は語る。

「考えて考えて答える。それではダメだと師匠に言われてまた考える。答えが実はないのではないかと思うでしょ!?でもあるんです」

ここまで聞いても学生はシンと黙っている。みんな頭の中は「??」なのだ。

「あんまり乱暴な言い方をするのも問題なんだけど、答えは『ない』なんだ」

ますます「???」という声なき声が上がる。

「考えて考えて何も『わからない』というのが正解なんだな。結局は何事もわからないということが悟るということなんだ」

 

最も有名な禅僧と言えば一休宗純がいる。一休さんが禅僧だと意識している人は少ないが、確かに頓智話というのは禅問答のようなものが多い。

しかし、それが勘違いの基なのかもしれない。アニメ「一休さん」は必ず一休さんが軽妙な答えを出す。それを期待してわれわれも見ている。話に答えは必ずあるのだ。

一方で現実は答えがないことの方が多い。ビジネスやスポーツ、さまざまな生活営みに答えはない。特に世界の第一線にいる人々は常に誰も見たことのない答えを探している。本当の答えなど最初からないのかもしれない。そう考えるととてつもない不安がのしかかってくる。

しかし、いくら考えても結局は「わからない」となれば少しは救われるのではないだろうか。失敗してから「考えが足りなかった」などと後悔したり、「自分に力がないのでは!?」という自責に駆られることはない。

 

私は山でわりと迷うことがある。明確に印のある登山道から急にバリエーションに入った時などよく戸惑う。バリエーションから一般登山道に入ったときも意外とギャップに慣れなかったりする。

結局は自分で考えて見極めるしかないのだが、正解を求めるほど解答が出ないことになることが多い。

「うーむ、わからん!」

と思っている時はアタリで、

「これしかない!」

と思う時ほどハズレを引いているのはなぜだろう。

私にはまだZenの精神が足りないということか…。

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まさに五里霧中の世界(奥穂高岳からの下山中)