今、『アレクサ VS シリ ボイスコンピューティングの未来』という本を読んでいる。
内容はなかなか興味深いのだが、中でも笑ったのはシリに「アレクサ!」と読んだらどうなるかという話。
「アレクサって誰よ!」と嫉妬に駆られた彼女のような反応をすることもあったらしい。なかなか粋(?)というかジョークの効いた機能だが、これによってかえってユーザーがシリを完璧な製品だと勘違いするようだ。
普通に「Wikipediaでは・・・」と読み上げられるより面白い。ただ、今度は過度にこのボイスコンピューティングを信用して、エラーを看過しにくくなるという悪影響もあったという。
確かに「アレクサって誰よ!」と言っていた彼女が勘違いしたことを口走るとそのたびに頭悪い子と付き合ってしまった気になってしまう。
コンピュータにとって言語は最後の難関だそうである。
人間が自然と目に入れ、触れているものをコンピュータは認識できないし、それを抽象化できないからだ。ひたすらインターネット上に溢れる言葉を繋ぎ合わせて「解答らしきもの」を作っているに過ぎない。
しかし、現実に日々仕事をしていると、人間も機械的に目の前の事象を継ぎ合わせて答えらしきものを大量に生み出しているのをよく見かける。
多くの人は、ただ言葉や数字を繋ぎ合わせるだけの、実質を何も感じ取らない成果に満足しているのだ。
そう考えると、現代において人間はより機械的に、コンピュータはより人間的に進化しようとしているとも言える。
それでは「ターミネーター」や「マトリックス」、「ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記」のような機械の反乱は起きるだろうか。
多くの科学者は起きないと断言している。
しかし、私は人間そのものがより機械化した人生を歩むようになるのなら、すでに機械の下僕となっているようにも思える。
妙な話になった。
まあ、今は山で雨に出も当たって人間らしさでも適度に取り戻すのが一番いいのかもしれない。