クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

親の願いと子どもの名前

朝、会社の最寄駅に降りると近所の小学生が描いたであろう救急車が貼ってあった。誰1人として知り合いはいないのだが、名前のバリエーションに感心してしまう。

「遥」なんていうのは昔からあった。「蓮」なんていうのは男の子の名前ランキング上位らしい。中に「歩の迦」なんていうのがあって、一体なんて読むのだろう。

 

今の流行りは字の意味より音にあるようだ。

少し前に「風張蓮」という投手がヤクルトにいて、「なんかアイドルみたいな名前だなあ」と思った記憶がある。「蓮」を「ハス」と呼ぶとお釈迦様の座っている花みたいになってしまうので、あくまで「レン」と呼ぶ。音読みでは意味をなさない気もするが、これは年寄りの発想なのだろう。

高校時代の友人の子どもには「悠」と付く子が多かった。距離や時間が長いことを指し、「悠久」とか「悠然」、「悠々自適」と使われる漢字である。ただ、親としては「野比のび太」になってほしいわけではなく、これまた音に惹かれて付けているものと見受けられる。

寿限無」という落語がある。言わずと知れた長生きさせたいと願う親が長い名前を子どもに付けてしまう滑稽話だ。

親のエゴと言えばそれまでだが、親が子にできる最初で最後の権利が名付けだと言える。子どもには生まれた時から人権があり、以降親は養育する義務とか教育を受けさせる義務とかを負うばかりで、親が子どもに行使できるものはない。

その意味で、親の願いとか期待、趣味が子どもの名前に反映されるわけで、各時代で並べると世相なんかもわかって面白い。戦前は「清」が多く、戦中は「勲」や「勝」、戦後「博」が増えたなんていうのは時代の流れを感じる。

してみると今の「音」重視の名付けはどういうことなんだろう。これを考察してみるのも面白いかもしれない。