クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

現代の錬金術とは~お金とは何だろう?④

数年前にジョン・グリシャムの"The Firm"(邦題『法律事務所』)という本を読んだ。主人公のミッチという弁護士が好待遇の法律事務所に就職する。しかし、そこはマフィアの運営する事務所で、次々と同僚たちが事件に巻き込まれていく。

その中で印象的だったのが、租税回避地にバカンスと称して札束を持ち込むシーン。ミッチはただのバカンスと信じてセスナ機に乗り込むが、途中でそれが資金洗浄のための現金輸送であることに気づく。

これのどこが印象的かと言えば、わざわざ札束を持ち込むところである。札束はもとを糺せばただの紙。それを仰々しく輸送するのは紙幣の価値を信じ切っているわけだ。

2001年公開の映画「ソードフィッシュ」ではお金の概念が全く変わっていた。

この映画は天才ハッカーがマフィアに利用されるところから話が始まる。世界の銀行システムに侵入し、マフィアの口座に送金してしまう。

しかし、見ていると何とも滑稽である。お金は画面に表示される数値。そこにパカパカと0が増えるのを見て一喜一憂したり、怒って銃を取り出したりする。画面の数字で殺されたらたまらんだろう。

緊張感なく見ていると、数字に一喜一憂する様はなかなか滑稽に見えてしまう。

 

野口悠紀雄『マネーの魔術史』によると、銀行というのは預金者からお金を預かり、それを他に融資しているものと信じられているが、そうではないという。

ラクリはこうだ。銀行はお金を持っていなくても、借入を行った人の預金残高の数字を増やせば融資したのと同じことになる。預金を送金した場合、預金口座の数字を減らして、受取人の数字を増やせばいい。紙幣を大量に引き出さない限り問題は起きない。

銀行はお金を持っている機関ではない。ただ公正な取引を行うと信用されている機関なのだ。

 

先の"The Firm"は紙幣に絶対の信用を置いていた。これは1991年の本だ。それが2001年にはデジタル数値に変わった。

しかし、実態は何も変わっていない。要は何を信用するかだけなのである。