クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

'90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ー自由の国

7歳は日本では小学校1年生である。日本の小学生は毎朝、上級生に引き連れられてぞろぞろと通学する。帰る時はどうするのだろう。私の時は帰る時は自由だった。

私が日本に戻ってきてから通った小学校では夏は白いハット、冬は男子のみ黒のツバ付制帽だった。冬帽は『サザエさん』でカツオがかぶっていた帽子を黒くしたイメージだ。服装は私服だったものの、男子は半ズボン、女子はスカートで、冬もマフラー禁止。長ズボンを履く時は親が連絡帳に「風邪を引いているので長ズボンを履かせます」と書いて先生に見せなくてはならなかった。


私はその小学校に入学していないものの、アメリカの学校へは最初半ズボンで行った。母親としてはそれが当然と思っていたわけだが、「日本人はなんてpoorなんだ。長ズボンを買えないから半ズボンを履かせているのか~」と勘違いされて、お古のジーンズをもらったりした。そんなわけで当時は半ズボンをやめて基本はジーンズにトレーナーという格好が多い。

向こうの子はやはり自由だった。ジーンズにシャツというラフな服装が多かったが、毎日シンデレラドレスのような服装の子もいた。

当時の母親によると、ディズニーの『シンデレラ』に出てきたようなラクダのコブみたいなドレスだけは禁止だそうな。それ以外ならOKとのこと。

そりゃそうだ、あれじゃ何もできん。


自由の国ではあったものの、子どもというのは半人前扱いなのでそれなりに大変さだった。

まず、州法によって子どもだけの留守番は禁止である。ちょっとした買い物も子どもを連れて出なくてはならない。うちの母親は、ほんの数分の場合のみ、われわれに声を立てるな、姿を外に見せるなと指示を出して近所で所用を済ませていたが、半人前がいると大人は困る。

一方で十何歳かになればベビーシッターとして金銭を得ることもできる。


もっとも子どもの側も困ることがあって、7歳だろうが一人前に見なされることで往生することもあった。

アメリカに行って半年くらいだろうか。母親がデイキャンプに行かないと言う。バスに乗って、アウトドアフィールドで、カヌーやらなんやらを体験できるらしい。わけはわからんが、せっかくアメリカまで来たわけなので参加することにした。妹は渋々だったようだ。

デイキャンプは10人くらいの班に分かれてアーチェリーをしたり馬に乗ったり、1アクティビティを1時間くらいやって、次へ行く方式だった。アーチェリーをやっても馬に乗っても、向こうの奴らは身体もゴツくて上手くやっていた。私はアーチェリーをやれば満足に引けず、馬に乗ればなぜか暴走し(おそらく食事中に呼ばれて機嫌が悪かった)、であまり良い思い出がない。


ある日、アーチェリーの後に不意に私は尿意を催した。今日いっぱいもたないことを悟った幼い私はリーダーに”Can I go to the toilet?”と訊いた。”Sure.”という言葉を聞くやトイレに駆け込んだ私が、戻ると誰もいなかった。

「うそやろ」である。ふらっとトイレに行けばその可能性もあったので、わざわざ告げて行ったのに。

その日、私は見失ったチームを探すのに、広いフィールドを半日がかりで駆け巡り、やっと探したらみんなは池でのんびりカヌーをしていた。

リーダーに配慮が足りないのか、それが当たり前なのかは未だにわからないが、その時私は「自由は重たいものだなぁ」と身をもって感じたのである。

'90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ーワシントンD.C.

この文章はすべて記憶任せなので時系列も事実関係もどの程度正しいかわからない。何せ7歳だし、7歳が書いたと思って読んでほしい。

西・北と来たので今度は東に行ってみたい。東はワシントンD.C.まで行った。飛行機に乗ったのだろうか、車で行ったのだろうか。そのあたりは曖昧だ。ワシントンD.C.の印象はいきなりドーンと着いたような感じなのだ。

 

いきなりドーンと現れたのは国会議事堂、the Capitolだ。大理石の宮殿といった雰囲気で、こんなに美しい建物があったのかと思う。最初にワシントン記念塔(Washington Monument)に登り、議事堂を見下ろすと、宮殿とういか神殿といった荘厳さを感じた。

後に日本の国会議事堂を見た時は「なんと薄汚れた建物だ」と思ったのはこのthe Capitolとの対比からだ。日本も議事堂の中は綺麗らしいが私は入ったことがないのでわからない。一方でthe Capitolには入ってみたが、中も外とたがわぬ美しさで赤い絨毯が印象に残った。

 

次にホワイトハウスへ行った。大統領宅が公開されているところがアメリカというものだろう。日本の首相官邸が公開されることはあるのだろうか。部屋が色によって分けられていて、。当時の大統領はジョージ・H・W・ブッシュ、父親の方だ。

リンカーン記念館にも行った。リンカーンは我が住まいであるケンタッキーの英雄で、リンカーンの生家である丸小屋にも行った。リンカーンメモリアルもやはり大理石でできていて、真ん中には巨大なリンカーン像、建物脇には有名なゲティスバーグ演説が刻まれている。父親は8ミリビデオで熱心に撮っていた。

スミソニアン博物館にも入った。そこで何を覚えているかと言えば、たくさんの飛行機だった。銀色に光る爆撃機が巨大な倉庫の中で鎮座していた。本当はもっといろいろ展示物があったそうなのだが、時間がなくて、ばーっと見たら銀色に光る飛行機しか覚えていない。

 

ワシントンD.C.は美しい街だった。

西部とナイアガラはよく覚えていたので、2000文字を超える文になっているのに、ワシントンD.Cでは何があったかとんと思い出せない。

ホテルに泊まったこと。チェックアウトでばたばたしたことくらいだ。あとは議事堂周辺が綺麗だったこと、スミソニアン博物館はとんでもなく大きかったこと。

首都とはそういうものなのかもしれない。

'90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ーナイアガラへ

前回、西部に行った話を書いた。我が家は10か月の間に実は東西南北かなりの場所に行っていて、北は五大湖のナイアガラが最北となる。今度は北へと向かってみたい。

 

五大湖へは自宅から車で向かった。ケンタッキー州から北上すると、オハイオ州に入る。

オハイオ州に入ったぞ。『オハヨー!』」

などとしょうもない話をしながら父親は車を走らせる。私たち兄妹は基本的にどこへ旅行するのかもわかってない。車に乗ってしまえば行先は砂漠なのか森なのかもわからないが、両親にお任せという具合だ。車内では日本から持ってきた「なぞなぞ本」でなぞなぞ大会をやり、それが終わるとしりとりゲームをした。

しばらくすると、車の周囲がうるさくなってきた。ヘリが飛んでいるのか、工事をしているのか。とにかく重低音が鳴り響き、うるさい。しばらくすると収まるかと思ったらどんどん大きくなる。車の行先を見ると、今まで晴れていたのが、霧に包まれている。なんだなんだ。

よく目を凝らすと、霧は飛沫であることがわかった。そしてそのうるさい音は滝の落ちる音だった。私たちはナイアガラに着いたのだ。

 

ナイアガラの滝にはアメリカ側とカナダ側の2つに分けられる。アメリカ側は規模も小さく、水量も少ない。一方のカナダ側は屏風のように水の幕が張っており、すさまじい飛沫を上げている。まるで海の一部が陥没したかのようだ。

日本で滝と言えば縦に細長い流れを指すものと思っていた。日本一の称名滝華厳の滝那智の滝も一様に川幅より縦に長い。ナイアガラはそんな7歳の固定概念を打ち崩すものだった。

何を御大層にと言われるかもしれない。世界にはイグアスのようにもっと大きい滝はあるぞと。その辺はまだ子どもの感想と思って多めに見ていただきたい。

車を降りると、さっそく滝見物をした。レンタルの黄色いカッパを着て、アメリカ側の滝を見物できる遊歩道を歩く。アメリカ側は小さいと書いたが、それでも飛沫があたると痛いくらいの勢いがある。もっと大きなカナダ側はどうなるものかと興味と恐怖心が芽生えた。

カナダ側に遊歩道はない。ほっとしたような残念なような。その代わりにカナダ側は船で滝の間近まで行くことができる。船に乗ると、何とも心もとないものだった。吸い込まれるように滝にぶつかれば沈みそうだ。いや間違いなく沈む。

船は何隻かあって前の船が限界まで近づくと引き返してくる。次の船が近づくという繰り返し。私たちの船の番が来た。滝の白い飛沫に向かって近づいていく。前の船が行くのを見た時は「すげー!」と感じたのだが、残念ながら自分の船の番になるとそれほど感動がない。近づき過ぎると飛沫で周囲が白いだけで、何も見えないからだ。ちょっと肩透かしである。感動の具合からすると、アメリカ側の痛い飛沫を受けた時が一番だった。

 

ナイアガラで印象的だったのは、滝そのものだけではない。滝見物の後は映画を見た。マリリン・モンロー主演の"Niagara"である。

筋書はほとんど覚えていない。というか当時の英語力でこの映画を理解するのは不可能だった。そういうわけで、ストーリーを調べてここに書いてもよいのだが、それはしない。

とにかくラストシーンが印象的だ。モンロー演じるヒロインがナイアガラの落ち口寸前の岩にしがみつき、男が船に乗ったまま滝つぼへと落下する。子ども心に「うひゃー!」と思った。あの滝つぼに落ちたら死んでしまう。ストーリーの中でも男は死んでしまうのだが、ついさっき見たばかりなので説得力がある。間違ってもあの男は「実は生きてたよ」などと再登場はできない。

さっきWikipediaでストーリーを念のため見たが、やはりサッパリ思い当たるところはなかった。この映画はやはり「滝から落ちる話」なのだ。

 

映画の後はカナダ側にわたった。なんだか簡単に国境を越えた気がする。

カナダ側では博物館に行った。それほど大層な展示物はなかったのだが、印象的だったのは蝋人形である。それはナイアガラから落下して見た男たちというもので、彼らは頑丈な樽の中に身体を入れ、滝の上から落ちるという挑戦をしたようだった。

「えーっと。この人は死んだようやな」

父親が解説を読んで説明する。樽には通気口みたいなものが付いていて、それぞれが創意工夫を凝らしたようだった。

「えー、この人も死んだみたい」

まったく意味不明である。山なら登りたいとか、ジャングルなら探検して未知の滝を発見したいとかあるかもしれないが、滝があるか落ちてみたいというのは一体何なんだ!?

「あー、この人は生きてたみたい」

ようやく生還した人がいた。

「ただこの人もう一回行って死んだらしい」

もう意味わからんぞ。なぜ一回成功したことをもう一回やるのだ。

先ほどの映画とこの展示物のおかげで、ナイアガラは風光明媚な滝という印象とともに人間を飲み込む不気味な印象が私の中に残った。

そうは言っても滝が人を飲み込んだわけではない。ナイアガラはずっと大量の水を落とし続けているだけなのだ。そこになぜか人が飲み込まれて行っているわけで、ナイアガラの不思議というより人間の不思議を感じた旅だったと言い換えても良いかもしれない。

'90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ー西部へ行く

アメリカを含む欧米の学校は概ね6月から8月は夏休みとなる。4月に入学した私はたった2か月で長期休みに入ってしまった。月曜から金曜はアメリカの学校で、土曜日は日本人学校に行っていたので、3か月まるまるの休みというわけではなかったが、それでも日本では考えられないくらいの長期休みを手にしたのだ。

今でも元気だが、もっと元気だった我が父は家族を連れてアメリカのあちこちを旅行した。わずかな滞在期間だったのにもかかわらず、今からするとよく出かけたものだと感心するやら呆れるやらである。

その中で、アメリカ西部に行った時のことを書きたい。

 

アメリカ西部で行ったのはアリゾナなどの砂漠地帯である。飛行機で飛び、飛行場でレンタカーを借りて旅行した。行ったのはモニュメントバレーやグランドキャニオン、最後にラスベガスということで、観光旅行では定番メニューである。

飛行場に着き、レンタカーに乗り込むとすぐにあたりは赤茶けた砂漠に変わった。後年、映画「駅馬車」を見たが、あのままの風景である。ただ、砂漠を楽しむにはそれなりの歴史の知識や教養が必要となる。早い話が砂漠は何もないエリアなので、すぐに飽きてしまったのだ。

基本は砂漠地帯なので地平線の先まで何もない。日本なら道と道には電柱が立っているが、そんなものもない。青い空があって茶色い地面があり、舗装路がひたすら一直線に伸びている。父親はひたすら「西部劇の世界や」とか言って感動していたが、7歳にそんな感動は通じず、ずっと手元にあるバットマンのポケットゲームをしていた。

地平線の先を見つめると、何か人工物が目に入った。砂漠にほとほと飽きていたので、目を凝らす。徐々にその人工物が近づいてくる。「なんだなんだ」と少し身を乗り出すと、それはマクドナルドの店舗だった。

砂漠の真ん中にマクドナルド?それが私の最も印象的な光景であった。

 

正直な話、モニュメントバレーはあまり感動しなかった。砂漠に突き出た巨大な岩であって、特に面白いものではない。何しろ遠くにあるので、当時の私にはその大きさを感じないのだ。

それ以上に面白かったのはグランドキャニオンで、渓谷の中を流れる白い流れを見ていると、この谷の中には何があるのかと想像が膨らんで楽しかった。

こういった名所の他に、父親は恐竜の足跡を見に行くというイベントも用意してくれた。おそらく子どもたちが退屈しているのを見て取ったのだろう。日本にいた時から私はヒサクニヒコさんの恐竜の本が好きで、講演を聞きに行ったこともあった。砂漠に飽きていた私にはこの旅行最大のイベントとなった。

カーナビなんかはまだなかったので、「足跡」までは地図を広げて向かう。日本のように「恐竜の足跡 この先20km」とかいう看板は立っていない。周りは相変わらずの砂漠で、こんなところでガス欠になったらと考えると恐ろしくなる。

地図に従って道を進むと、舗装道路が切れてダートになる。「ほんまにこっちか?」と父親も少し不安になったようだ。それもで夕暮れ迫る中、車を進めるとなんだか小さな看板が立っていて、「何の標識だ?」と見るとそこが恐竜の足跡のあるところだった。

「恐竜の足跡」と言って何を想像するだろう。おそらく三本指の鶏の足跡の大きなものや、子どもなら中に入ることができるくらいの窪みだろうか。

そこあったもの。それは砂漠に空いたちょっとした穴だった。昨日雨がふって陥没したと言ってもわからないくらいのただの穴。しかも薄汚れた板切れに何か書いてあるだけで、どんな恐竜かもわからない。

日本ならたちまち博物館ができて、足跡は保存するためのガラスケースに入れられ、生きていたころの姿を再現した模型やその恐竜が食べていたであろう食物の解説が詳細に書かれ、果ては恐竜饅頭に恐竜手拭いが発売されそうなところだが、こういうところがアメリカである。

「どこが?」などと訊かないでほしい。こういうところである。

 

西部最後の観光はラスベガスだった。正直な話、何泊の旅行だったかも覚えていないが、ラスベガスが最後だった。

ラスベガスに着いたのは夜で、今まで街灯もない真っ暗闇を走っていた車を突然光の渦が取り囲んだ。夢のようなというより、何か異様な感じがした。さっきまで車のライト以外は漆黒と言っても良いくらいの闇だったのだ。

高いビルが立ち並び、車道の脇には巨大なネオンの看板が並んでいる。中でもピエロの看板が妙に印象的で、異様さを一層増しているような気がした。

後に何かの文章で、ラスベガスの明かりは漆黒の闇に押しつぶされないように光を放ち続けているというような記述を見て、大いに納得した。この街の明かりは、辺りを闇に包まれないように、燃え続ける星のような感じがする。

当時はラスベガスがカジノの街だなんて知らないし、知っていても子どもがカジノに行けるわけがない。「最後の晩はちょっと贅沢しようか」などと話していた両親だったが、着いた時刻も遅く、ほとんど客のいないレストランでピザとパスタを食べてモーテルに入るとすぐに寝てしまった。

 

 もし20歳を過ぎて同じ旅行をしたら、モニュメントバレーにジョン・ウェインの姿を重ねて、もっと感動したかもしれない。ラスベガスではスロットでもやろうかという気になったかもしれない。

ただ、マクドナルドに感動したり、グランドキャニオンの谷底を想像したりはしないだろう。この年だったから感じたもの、考えたことがあったことは確かな気がする。

‘90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ーアメリカに住む

私たちが住んだのはケンタッキー州レキシントンという街だ。

住まいは学校裏の閑静なアパートで、アパートであったものの、玄関へ続く石段は各家で別れており、中も二階建てで、極めて一軒家に近かった。

玄関をくぐると廊下があり、右手にダイニングキッチン、左手は二階へ続く階段。ダイニングキッチンには日本で見たこともない天井ファンが付いている。キッチンは渦巻式の電磁調理器と食洗器があった。当時は食洗器のある家が珍しかったので、これにも驚いた。

廊下の突き当りはリビングで、ソファや家具は備え付け。日本のように天井には照明がなく、すべて白熱球の笠のついたランプだけだったので、暗いときは少々往生することになる。

リビングの窓からは芝生と木々が見える。芝生は時々刈る必要があり、それは夫の仕事である。芝が伸びていると「あの家の夫は甲斐性がない」とされるらしい。ただ、芝刈り機をわざわざ買うのももったいないので、うちでは近所に住む日本人家族から機械を借りていたようだ。

アパートとはいえ、庭付きでなかなか自然豊かだった。庭には時折、リスやチップモンクが現れ、夏になると蛍が乱舞して、部屋の中にも入ってきた。

 

私と妹はアメリカに住むなり、すぐに学校へ入ることとなった。私は小学校1年生になる年だったが、英語が全く話せないということでkindergarden、つまり幼稚園に入れられた。妹は1歳5か月違いで、幼稚園の年少組。日本で卒園してきたばかりなのでやや納得いかないが、英語がまったくできないので仕方ない。

日本人に英語コンプレックスの人は多いが、それでも大抵の人は中学と高校だけで6年は学習している。大学に行けばプラス2年も付くし、最近は小学校でも英語教育があるそうだから、年数だけは伸びている。しかし、それでもコンプレックスを持つ人が多いのは、単に日本国内では使う必要がないからだ。

私は当時7歳。英語どころか日本語もひらがなとカタカナしか書けないし、何が英語で何が日本語かの区別もつかない状態で、英語社会に放り込まれた。良くも悪くもアメリカでは英語以外は通じない。日本で日本語しか通じないのと同じである。おまけに日本人が英語を少しは理解しようとするのに対して、アメリカ人は日本語なんか端から理解しようとしない。私は7歳ながら大変な事態になったことに気づいた。

 

初めて学校(幼稚園だけど、一応学校と表現する)へ行くと、先生がデカかった。先生は2人いて、1人は白髪で細身長身のおばあちゃん先生。もう1人は金髪でがっしりした体格のこちらも女性の先生。おばあちゃん先生は170cmはあっただろう。うちの両親がやけに小さく見えた。

周りの子どもも一様にデカい。私は日本では平均より大きかったが、こちらでは小柄な部類になる。おまけに金髪、青い目の子もいれば、チリチリヘアーで色の黒い子もいる。東洋人はほとんどいなかった気がする。

成田から乗った飛行機を降りる際に私たち兄妹は母親からこんな注意を受けていた。

「降りたら髪の金色の人とか目の青い人がいるけど、笑ったりしたらアカンよ!」

今よりずっと賢かった当時の私にそんな注意は無用だった。飛行機から降りた瞬間から自分たちの方がマイノリティーであることが明らかだったからだ。そして、学校に行ってからも自分は少数派中の少数派、おまけに英語も話せない珍しい奴であることを即座に理解した。

 

さて、最初は同じ教室に日本人がいたので、困ったとき(主に困るのは先生の方だが)は彼に少し通訳してもらった。ただ、7歳児の言葉を7歳児が通訳するのだからたかが知れている。おまけに彼はある程度英語の上達が認められたので、小学校のクラスへと移って行ってしった*1。私が自分の意思を伝えるには自分で英語を覚えるしかなかった。

辞書も引けない少年がどうやって英語を覚える唯一の方法は通じる言葉を探すことだった。日本語でもカタカナで書くものの中には英語が混じっていることを何となく察していた。とにかくカタカナ言葉を発してみて、相手の顔をうかがう。「何を言っとるねん」という顔をされたらそれは英語ではない。「あー!」という顔をされたらそれが英語なのだ。

これは大人にはわからない根気のいる作業である。大人なら辞書を引けるし、"What's ××?"と訊くこともできる。しかし、7歳の私にできることは手持ちのわずかな知識を駆使して英語を地道に探索することだけだった。

こう書くといかにも独習で英語を習得したようだが、体系だった英語ではないので日本に戻ってからはすっかり忘れてしまった。

ただ、面白いのは、日本語すら怪しい状態でいろいろ覚えたので、いまだに日本語より英語の方が先に出る言葉があることだ。例えば、私は「教会」より先に'church'という言葉を聞いたので、今でもchurchの方がしっくりくる。滞在時期も最後の方になると'cow'は日本語で何だったか思い出せないこともあった。

英語の早期教育の是非がしばしば取り上げられるが、個人的な意見としては、言語は通じることが重要なのだから、早めにやっても問題はないと思う。日本語が完全に固まると、日本語から英語を理解しようとするので、どうしてもコミュニケーションのスピードが遅くなる。それに日本では「口から先に生まれたような」は悪口だが、アメリカでは先に口を出さないと立ち遅れる。テキトーでも伝えることがアメリカ社会では重要だと知ったのは語学力以上の収穫だったかもしれない。

*1:その学校は小学校と幼稚園が同じ建物内にあった

'90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ー出発

「昔、少しだけアメリカにいたんだ」

何かの話題にそう話すと、「へー!」と感心される。

「たった10か月だけどね」

「英語しゃべれるの?」

「当時7歳とかだから戻ってきたら全然」

これで少し英語がしゃべれたらカッコがつくのだが、英語は嫌いではない程度でさほどうまくもないし、なんだか帰国子女の面目が立たない。そもそもたった10か月では帰国子女とも言えない。

ただ、この期間は私にとってはもっとも記憶に残っている時代でもある。そのうち記憶がなくなってしまう前に貴重な体験(私にとってだが)を書いておこうと思う。

 

我が家がアメリカに行くことになったのは父親の仕事のためである。仕事は製薬会社で、大学との共同研究とやらのためだった。後に知ることになる情報によると、父は会社の公募でアメリカ行きを名乗り出たらしい。ただ、期間は1年限定で、共同研究と言っても何かの成果を求められているのではなく、単にアメリカ研修といった意味合いのものだったらしい。

90年の1月に父が先にアメリカに発ち、4月に残る家族、母と私と妹が追いかけるということになった。

向かうのはアメリカ・ケンタッキー州である。まずは伊丹から出たジャンボ機に乗ってシカゴに向かう。私にとって飛行機に乗ることが初体験である。母方の祖父たちが見送りに来た気もするが、そんなこともロクに覚えていないくらい興奮していた。

 

飛行機は真ん中の席で、どでかいスクリーンしか見えない。飛行機は離陸に向けて走り、機体を上に向かって傾けるが、外が見えないのでなんとも動いている実感がない。何ともつまらない乗り物だと感じた。

そんな機内の楽しみは食事くらいしかない。機内食を訊きに来たキャビンアテンダントに、肉か魚かと訊かれた我が兄弟は、その言葉に対してやや食い気味に「肉!」と答えて母親に睨まれたりした。

夕食が終わるとやることもない。前のスクリーンでは洋画がやっていたが、英語なのでよくわからない。というかまだ7歳なので日本語でもよくわからない。何時間も缶詰でいなくてはならない飛行機は理不尽な乗り物だと感じつつ私は太平洋を運ばれていった。

 

飛行機を降りる直前になると、母親が妙にピリピリし始めた。アナウンスで入国に関する注意が告げられているようだったが、それらはすべて英語なのだ。妹とふざけていると「静かに!」と鬼の形相で叱られる。その時、母親が英語を知っていることに妙に感心したりした。

飛行機から下りると入国手続きがある。行列ができていて、こちらでも母親はピリピリしている。私たちにはなにがピリピリなのかよくわからない。ただ、アメリカ紙幣に描かれている天秤のイラストをよく見ると、髭のオジサンみたいだなぁなどというどうでもよいことを考えていた。

空港には父親が来ていて、その日は空港近くのホテルに泊まった。朝に着いたつもりだったのに、外は夕方である。わけがわからない。

その日はルームサービスで食事をし、もう「夜だから寝なさい」と、詐欺のようなことを言われたが、いくらでも寝ることのできる私は結局数時間起きていただけなのに寝ることができた。

 

ケンタッキーへはシカゴから再び国内線飛行機に乗った。今度はプロペラ機だったと思う。

飛行場には父親が車を止めていて新居には車で向かった。日本では駐車場付きのマイホームを建てたものの、マイカーはなかった。そして私は父親が車を運転できることも知らなかった。そして父親を少し見直すのと同時に、広い駐車場を埋め尽くす車を見ては「アメリカとは豊かな国だなぁ」と思った。

車はツードアのスポーツカーで、後部座席に乗るためには運転席と助手席のシートを前に倒して、隙間から身体を入れなくてはならないというややこしいものだった。父親の話では、「これなら子どもが勝手にドアを開けないし、外から子どもをさらわれることもない」というわけで何とも怖い話である。

 

車は空港から何もない林を抜け、芝の広がる丘を横切る。

「見てみぃ。馬や」

父親が運転しながら言う。横を見ると丘の上で馬が立髪をなびかせている。ケンタッキーは競走馬で有名で、郊外のあちこちに牧場があり、広い芝生の上を馬たちがのびのび走り回ってる。

「ほら!church や」

church が何かはわからないが、指し示した先にはレンガ造りの巨大な三角屋根の建物がある。その他の家もすべて巨大だ。

とにかく、アメリカはでっかいのだ。

車はさらに走り、住宅街らしきエリアに入る。道を左に折れて少し行くと、茶色いメゾネットタイプのアパートの前に止まった。

秩父主稜縦走物語-続

鴨沢の雲取山登山口に着いたのは7時過ぎ。気品がないとか言ってごめんなさい、オジサンのおかげで早く着きました。

とにかく「登山」というタグを付けておきながらまだ登山は始まってない。

 

奥多摩湖から林道を少し歩いて登山道に入る。一旦登山道からまた林道に出て、少し迷った。再び山道に入ったが、10mくらいで違うと思って引き返す。

「はい!お兄さん。最初から間違えているようだからこれあげる」

ライトバンに乗ったオジサンで、国際派オジサンよりさらに品のない無精ひげに緑の腕章をしている。渡されたのは山梨県丹波村のトレッキングマップだった。

「63歳、青いザックの人が行方不明になってるから」

どうやら山岳警備かボランティアの人らしい。それにしても13年前も同じところで迷った気がする。変化していないというか進化していない。

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この祠を見たら間違い

 

雲取山までの道のりは長いが傾斜は少なく歩きやすい。下界は30℃を超えるということで山に逃げてきたが山も暑い。同じ魂胆か、早い時間にもかかわらず人は多く、アルプスに比べると比較的低年齢層が多かった。

 少し萎れ気味のつつじが咲き、時折木の間から富士山が見える。最初に来た時は小鳥の囀りにさえ感動していたのが、今は「暑い暑い」と文句ばかり垂れるところが13年の変化だろうか。

七つ石山を巻いて展望の良い尾根に出ると富士山がきれい見え、日差しに暑さを感じる中で頂上までの最後の登りにつく。頂上はまだ満員御礼ではないものの数人が思い思いに寛いでいた。時刻はまだ11時だ。

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雲取山より富士山

 

雲取山から西に伸びる縦走路に入ると道は細くなる。笹が生い茂り、スポーツタイツにハーフパンツなんていう気取ったスタイルで来ると後悔しそうだ。道は大半が稜線を巻いていて高低差が少ない。楽は楽なのだが、距離が長いし、人とはあまり会わないし、暑いし、と文句ばかり言っても自分の足で進まないと登山にならない。

道ははっきりしているものの、雲取山までとはギャップがあるので注意が必要だ。時折道が崩れているし、広いところではルートを見失いかねない。メジャールートから突然マイナールートに入ると、人気がなくてほっとする一方で道迷いの危険が増す。何気ない道でこそ「慎重に慎重に」と言い聞かせることが肝心だ。

なだらかな道から右に折れる近道から飛龍山山頂へ向かう。少しばかり急な坂を登りきるとヘルメットを被った男性が3人いて、しきりに無線で交信している。

「飛龍山は諦めて将監小屋に戻ります」

3人とも腰にはスリングやカラビナをじゃらじゃら着けている。察するところ行方不明者の捜索を行っているのだろう。ひょっとしたら登山口で聞いた63歳を探しているのかもしれない。

飛龍山は雲取山より標高が高いにも関わらず頂上は鬱蒼としていて展望がない。名前は格好が良いだけに少し残念な山だ。さっさと下る。

分岐で三条の湯に下るか縦走路を進むか迷った。三条の湯で風呂に入りたい気もする。ただ、下ると翌朝登り返すことはない。つまり今回の登山は終了となるわけだが、時刻はまだ13時である。結局、将監小屋を目指して歩き始めた。

 

 将監小屋は縦走路から10分くらい下ったところの山間にあった。この小屋から行ける場所に顕著なピークはないはずなのだが、意外なほど賑わっている。最終的に30張くらいになっただろう。それでもテント場は段々畑のようになっていて隣とくっつくことこないので快適。化繊ダウンを羽織ってコーンスープを作って飲む。

なぜか女性が多く、笑い声が響き渡っていて、それほど暑くもなく寒くもなく、山のシアワセな光景が広がっている。展望がさほど良くないのが玉に瑕だが、ぎゅうぎゅうで殺気立つこともなく。

 日が暮れてからは町田康のエッセイを少し読んで、疲れていたので7時には寝た。

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将監小屋テント場の満員御礼

 

5月の快晴。前日、麓は30℃を超えた。この日も朝から長袖シャツ1枚で出発。

将監峠まで登り、笠取山まで若干のアップダウン。木陰からは富士山がよく見え、その中でゆるゆると歩を進める。

笠取山まで人はまばらだったが、頂上では親子連れやカップルなどが数人現れた。車からだとアプローチしやすいからだろう。

そこから迷ったが、雁坂峠まで行くことにした。余裕があれば甲武信まで行くつもりだったが、西沢渓谷からの最終バスの時間を考えると難しそうだ。

2000m付近の縦走だったが、この日はとてつもなく暑くて、盛夏の南アルプスのようだ。できるだけ汗をかかないくらいのペースで歩く。

雁坂峠には何とか午前中に着くことができた。

 

雁坂峠からの下山中、2頭の鹿を目撃した。

1頭は登山道に堂々と横たわっていた。と言っても本人の意志ではない。身体の半分は白骨化していて、肋骨の中は黒く空洞になっており、骨の上に白と薄茶に変色した毛皮が乗っていた。おそらく冬の間にどこかで息絶え、雪解けとともに登山道へ押し出されたのだろう。

もう1頭はさらにしばらく下った河原から斜面に駆け上がっていた。私には全く気付いていないようだった。

"Neither of the two people in the room paid any attention to the way I came in, although only one of them was dead"(私が部屋に入ってきた時、2人とも一切私に注意を向けなかった。1人は死んでいたのだが)

レイモンド・チャンドラーの"The BIG SLEEP"の一節がなんとなく浮かんだ。

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2頭の鹿のうちの1頭

 

雁坂峠からの下りは川沿いを行く。時折高度感があって、一般登山道にしては少し緊張する。落ちたら先ほどの鹿のようになるのだろうか。

川沿いから林道に降りると登山も終了。と思ったのだが、ここからバス停までがやたらに長い。再び汗をかいて林道を歩く。

道の駅でバスの時間を調べると、ちょうど10分後だという。その次は1時間半後。慌てて西沢渓谷のバス停まで急いだ。バスを降りると今度は電車が2分後。再び慌ててホームへ向かう。この期に至って慌ただしい。

前日の国際派おじさんや三条の湯に泊まると言っていたお姉さんはどうしているだろうな。