クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

冬の甲斐駒ヶ岳

今年も成人の日の3連休に冬の甲斐駒ヶ岳に行ってきた。韮崎駅から路線バスで道の駅はくしゅうで下車。そこから1時間歩いて竹宇駒ヶ岳神社から入山。黒戸尾根から頂上を目指す。

黒戸尾根は累計6回目、冬だけで5回目だ。最もシツコク登っているルートである。なぜこれほどシツコクこの坂を登るのだろうか、自分でもよくわからない。

 

道の駅はくしゅうの脇には竹宇駒ヶ岳神社までの参道を示す石門がある。門と言っても扉はなく2本の石柱が道路の脇に立っているだけで、その間からは甲斐駒ヶ岳の白い頂を遠く臨むことができる。

「参道」を進むと脇には幼稚園、小学校、老人ホーム、寺と墓地が登場し、まさに「ゆりかごから墓場まで」を体現する道となっている。通り過ぎる集落の民家は屋根瓦に縁側を備えた旧家で、井上靖の『しろばんば』に登場したような土蔵を備えた家も多い。バスを下りたのは9時20分だが、時折通り過ぎる地元の軽自動車を除けばほとんど人がいない。人気のない田舎道を黙々と歩く。

集落の奥で左に方向を変えると、今度は別荘のような家が並ぶエリアになる。こちらも人気がなく、一度猿の群集に出くわしたことがある。別荘地の中を進み森の奥に入っていくと尾白川渓谷と甲斐駒ヶ岳神社の大きな駐車場に行きつく。

 

駐車場には皇太子殿下登頂の碑がある。平成2年に黒戸尾根から甲斐駒ヶ岳に登頂されたらしい。それにしても立派な碑だ。現在の皇太子殿下は山好きとして知られているが、今年即位してからも登山を続けるのだろうか。

オーストラリアの首相がスキューバダイビング中に行方不明になったという話を聞いたことがある。一国の代表がリスクのあるスポーツを嗜むのはその国の文化を示していて面白い。

日本の安全安心、リスク嫌いの文化を変えるためにも登山はぜひ続けてほしい。

 

竹宇駒ヶ岳にの本殿前に立つと鈴の音と何かの歌が聞こえた。祝詞でも上げているのだろうか。さらに近づくと3人の男女がいて、先頭の男性が般若心経を唱えながら鈴を振り、後ろの2人の女性は手を合わせて頭を下げていた。新年だからだろうか。私はそっと彼らの後方から本殿に手を合わせて登山道に入る吊り橋を渡った。

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黒戸尾根に向かう吊り橋、尾白川を渡る

 

 麓から甲斐駒ヶ岳へ真っ直ぐに突き上げる黒戸尾根は深田久弥が「日本アルプスで一番つらい登り」と評している。標高差が大きく長いのはもちろんのこと、登山道は一直線に頂上へ伸びていてほとんどが登りとなっている。

 登山道に入って2時間以上は全く雪を見なかった。道すがら側溝の水が凍っていたのでそれなりの冷え込みだったはずなのだが、今年はかなり雪不足のようだ。落ち葉をザクザク蹴散らしながらしばらく無心で歩く。

雪は岩の上を歩く「刃渡り」の直前くらいからぼつぼつ現れた。道が凍り始めたところでチェーンスパイクを出す。これはチェーンにステンレス製の短い歯の付いた滑り止めで、歯が短い分雪の少ない所でも歩きやすい。歯の長いアイゼンで歩きにくい場所では軽くて有効なアイテムだ。

刃渡りからは薄曇りながら富士山や八ヶ岳が見えた。今日も遠くこれらの山にも同じく登山者が蟻のように登っているだろう。

刃渡りを過ぎると再び樹林帯が続く。ひたすら登りなので汗ばんだ背中が冷たいが、この日は風が少ないのは幸いだった。

 

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刃渡りを行く

 冬なのに人は多かった。初めて来た5年前の12月は七合目にある七丈小屋に至るまでに1人としか会わなかった。この日は小屋に着くまでに15人くらい抜いただろう。前日に山小屋に予約の連絡を入れると「混むと思いますが」と言われていた。

 七丈小屋の前の小屋番はとびきり無愛想なことで知られていた。私が5年前に行ったときはテント泊で、小屋番のおじさんは小屋の前で受付をし、「小屋にある水は使っていい。テント場にあるショベルは使っていい」などの業務上の連絡を済ませるとさっさと小屋に入ってしまった。小屋の前には1組の若い男女がいて、「テントにするか小屋泊まりにするか迷ってます」と言った。

テント場は小屋から10分ほど上に歩いたところにある。テント場にはたんまりと雪が溜まっていて、日暮れが迫る中で必死に雪を掻いてテントを建てるスペースを作っていると先程の男女が上がってきた。「やっぱりテント泊にすることにしました」と語った。その頃小屋は予約すら受け付けてなかったのだが、テント泊のつもりで来て、小屋に泊まろうとすると小屋番が途端に冷たくなると聞いたことがあった。おそらく冷たくあしらわれてテント泊にすることにしたのだろう。

その小屋番も一昨年の3月に定年を迎え、新しい管理者は現役のクライマーであり山岳ガイドの花谷さんが担っている。そのせいかちょうど1年前に来た時からアックスを2本ぶら下げたクライマーの小屋泊まりが増えた気がする。甲斐駒ヶ岳には黄連谷などのアイスクライミングのスポットがある。

 

五合目小屋跡には7、8人のクライマーがいた。黄連谷へは五合目付近から一度下って氷瀑を目指すので、この付近にテントを張ると都合がよい。ただし、ここも雪が少ないので水の確保が難しそうだった。

五合目から小屋までは梯子や岩のある急登となる。元々歩く速度は速いがすぐに息が上がる。ほんの5年前にテント泊装備で登ったと思えない。このルートの核心は小屋までではないかと思う。小屋跡から登ってわずかに下り、木橋を渡って登り返すとようやく白い壁の小屋が姿を見せた。

七丈小屋には2つの棟があり、第一小屋と第二小屋と名前が付いている。第一小屋には管理人の部屋や受付があり、第二小屋は宿泊場所のみで、自炊を行う素泊まり客は第二小屋が充てられる。狭い尾根に立っているので、収容人数は2つ合わせて30人くらいだろうか。私は自炊なので第二小屋の13番の布団を指定された。

第二小屋は満室だった。自炊は小屋の扉近くの三畳くらいのスペースと決められていたので、これは大変なことになると思っていたのだが、第一小屋からスタッフが現れて夕食の準備ができたことを告げると瞬く間に私を残して全員が第一小屋へ行ってしまった。

独り残った私は独りでラーメンを茹で、独りで食べ、独りで息をついた。

 

七丈小屋に泊まった人間は翌日二方面に別れる。一方はそのまま黒戸尾根を登り頂上を極め、他方は再び五合目まで下りて黄連谷などでアイスクライミングをする。黄連谷に向かう一団は午前2時に起床し、2時半に小屋を発って行った。

私は少々早いと思ったが、4時に起きて準備を始めた。ビスケットを齧り、昨日小屋でもらった水を飲み、不要な装備を置いて、ヘッドライトを付けたヘルメットを被って小屋を出る。小屋の前でアイゼンを付け、ピッケルと片手に持ち、星の散らばる空を眺めて出発。空気は冷えるがこれまでで一番風がないかもしれない。

小屋から数分歩くとテント場には2張のテントがあり、1つはあかりが灯っていた。まだテント泊の登山者も動き出していないようだ。

前日までに付いていたトレースはまだはっきりしていた。雪が少ないのは小屋から上も同じで、ほぼ夏道通りの道を行く。LEDライトが照らす雪がきらきら光る。冷凍庫作業用の手袋「テムレス」とインナー手袋を併用するが、手が冷えて痛い。時間が早いので東の空も暗いままで、甲府の街の光がちらついていた。

八合目はご来光場と呼ばれ、樹林帯を抜けて日の上がる東側が開けた場所だ。樹林帯を抜けると、前日の夜に降った雪と風でところどころトレースが消えていた。その日の一番手は道を付けなくてはならない。時々踏み固められた部分を外して膝がズボりと雪にはまってしまった。しかし、それが一番手の楽しみでもある。

 

八合目からやや細い稜線を歩きさらに上部を目指すと、岩の塔が出てくる。塔を登ることはできないので、岩と岩の間の雪の付いた側溝のようなところを登らなくてはならない。無雪期は鎖があり、足を載せるステップがあるのだが、積雪期は雪が詰まって急な斜面になっている。雪面にアイゼンの先を蹴りこみ、右手のピッケルの先もできるだけ固い雪に差し込む。

ここが一番の難所だ。軟雪に体重をかけて足元が崩れるとそのまま谷の奥まで落ちるかもしれない。 岩と氷のミックスのような固いルートより雪や土の軟らかいルートの方がむしろ危ない。

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黒戸尾根の難所(下山時に撮影)

ついに日が上がった。山は朝がいい。

雲海から頭を出した太陽が雪面を橙色に染めだす。空の縁が桜色に滲む。この瞬間のために山に登っていると言ってもいい。

日が出た時は頂上の50mくらい下だった。誰もいない、ところどころトレースの消えた斜面を登る。もう頂上の祠が見えている。

1年ぶりの甲斐駒ヶ岳。去年より疲れた気がした。

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黒戸尾根から見る日の出

 誰もいない頂上で山専ボトル(魔法瓶)に入れたスポーツドリンクを飲み、ビスケットを少々齧り、北岳仙丈ヶ岳・富士山と眺める。ここ5年は毎年登っているが、雪の付き具合は違っても山の形は変わらない。

以前、槍ヶ岳から穂高方面を撮影した写真が父の持っていた30年以上前の写真はがきと同じで驚いたことがある。同じ場所から同じアングルで撮れば当然ではあるが、山は見た目にはほとんど変わってなかった。いや、変わっていないことはないだろう。変わっていないように見えるほど大きいだけなのだ。

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頂上より仙丈ヶ岳方面

風はなく陽の光が暖かさを徐々に伝えてくれていた。それでも冬の3000mは寒い。飲み物で少し温まるとすぐに下山を開始した。

すぐに2人組みが登ってきた。「風がなくていいですね」と少し言葉を交わす。風は明け方は北から吹いていたが、夜明けとともに止んだ。ただ下りは登りより滑落などの可能性が高い。

のんびり、慎重に、時々景色を写真に納めながら下っていると次々に登山者が上がってきた。今日のご駒ヶ岳神社の神体は満員御礼だ。

 

下山は登山より難しい。特に嫌なのは「核心」と書いた岩の間のルートで、慎重にアイゼンを雪面に蹴りこみながら後ろ向きに下りた。下りは足元が見えにくい上に掛かりがわかりにくくて非常に怖い。登りの人とのすれ違いにも注意が必要だ。とにかく人が来てようと焦らないことが肝心である。

核心部を過ぎるとのんびり下りとなる。これから登る登山者に山頂の状況を時々訊かれては答えていた。

「風はあまりないです。雪は少ないです。トレースはあります」

冬はみんな風が気になる。晴れているかどうかは見ればわかるが、風は下からではわからない。そして技術の有無を問わず先に行った者だけが知っている。

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小屋から頂上を見上げる

小屋に着いて、デポしていた荷物をパッキングしなおして再び下る。ここから特筆すべきことはない。アイゼンからチェーンスパイクに変えてのんびり下った。

これほどシツコク黒戸尾根を登る理由は何だろう。おそらく私にとって適度にチャレンジングで、適度にアクセスが良くて、それでいて極めて美しいからだ。しかし、なぜ美しいと感じるのかは下山する時になってもまだわからなかった。

登山口に着いたのは13時。バスの時間を考えると風呂に入るには時間が足りない。道の駅に着いたら今しがた登った山を愛でながら遅い昼食としよう。

背負い投げ

そろそろ引越しを考えている。今の住居に住んではや10年以上経つが、いろいろモノが増えた。最たるものは自転車で、1台は玄関、もう1台は部屋の奥で逆さになっていて現在2台ある。パソコンとスマホもここに越したころにはなかったものだ。一方で「冷風扇」という扇風機もどきは壊れて捨てたので今はない。生活用品はむしろ少なくなった気がする。

山道具は雪山を始めたのを機にウェアを中心にかなり増えている。その中でも1番増えたのはバックパック。越してきた時は80Lと30Lの2つ。今は大きいものから順に80L、58L、45L、38L、30Lの5つになった。1回の山行に1つ。背中も1つしかないのだからそれほど要らないようなものだ。しかし、どこからともなくむくむくと物欲が沸いてきていつの間にか増えてしまう。特に山に行かない期間に買いたくなる。

そんな風にして増えてしまった我が相棒のうち大型バックパック、3匹のサムライたち、を紹介したい。*1

 

1.ゼロポイント・エクスペディションパック80

今誰かが80L以上のバックパックを買いたいと相談に来たら、厳冬期にアルプス縦走をやるとかの用途を除いて、お勧めしない。登山の入門書を見ると「夏のテント泊なら60L、冬なら80L以上を持つようにしましょう」と書いてあった。その言葉を信じて80Lを買ったわけだ。

買ったのは22歳という元気な盛りだったので、「体力さえつければ背負える」と思っていたが、重かった。何しろ中身なしで3kg近くある。背中にはプラスチックのようなパネルとアルミの棒が2本入っていて、まるで背負子のような構造である。雨蓋も特大で本・地図・ヘッドライト・財布などの小物を楽々と飲み込む容量があったものの、入れすぎると手さぐりで探し当てられないくらいだった。

 

これくらい大きくなると自分の身体が隠れてしまう。イメージは蝸牛。背中に衣食住を全て詰め込んでいるような状態。

 大学最後の1月、石鎚登山の後に四国の一人旅した時のこと、徳島の景勝地大歩危小歩危に行った。冬なので水量が少なく迫力のない景色を眺めてから、次の目的地である祖谷渓に向かった。バス停で時間を見ると次は2時間後。少し躊躇したが、時間があるので行けるところまで歩こうと思った。おそらく後ろから見るとバッグが歩いているようだろう。車が脇をシュンシュン通り過ぎていく。

歩き始めて5分も経っただろうか。1台の乗用車が通り過ぎた。その車は少し先でUターンするとまた引き返してきた。道を間違えたのだろうか。するとその車はさらに私を通り過ぎてUターンした。

「なんだなんだ!」

車は再び私の脇に来た。50くらいの女性が運転しており、助手席にはその娘と思しき20代の女性がいた。

「どこへ行くんですか?」

彼女たちは祖谷渓の近くにある「かずら橋」へ向かう途中だったが、蝸牛のようにのそのそ歩く私を見て思わず引き返したらしい。2人は東京から旅行に来た母娘だという。そこで彼女たちの車に乗せてもらい、おまけに祖谷温泉に入って昼食までご馳走になった。

蝸牛バッグにもご利益がある。

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鳳凰三山に行ったとき

このバックパックはやたらに重い。「中身を軽量化すればよいではないか」という意見もあるだろうけど、いくらでも入る分、いくらでも入れてしまって結局軽量化は実現しない。しかも、中身を減らすとガバガバになってバランスが悪く、余計に疲れてしまう。

写真は夏に御座石鉱泉から鳳凰三山に登った時で、急な登りで疲れ切った時のもの。1泊2日の荷物は80Lもないので、脇のあたりがたるんでいて、結局軽く感じない。

最後に使ったのは6年前のキャンプで、単に大量の荷物を運ぶキャリアーとしたわけなのだが、そうなるとウェストハーネスが車の中でひたすら邪魔になって仕方がなかった。

かなり初期に買ったせいか悪口ばかりになってしまった。ただ、荷物が入ることにかけては随一なので、災害時にはこれに米を詰めて避難することにしよう。

 

2.グレゴリー・トリコニ60

南アルプスで80Lの荷物に潰されそうになったのをきっかけにようやく荷物の軽量化に乗り出した。気合と体力も徐々に軽量化されたということだろう。

アウトドアライターのホーボージュンさんによると彼は南米を1ヶ月にもわたって歩く装備をすべてトリコニ60にパッキングしたという。わずか2、3日を歩くのに80Lを使っている自分がバカバカしくなる。山道具に関してミーハーな私はグレゴリーを「アウトドアライター御用達バックパック」として崇拝していた。

 しかしながら、このトリコニも重い。80Lのエクスペディションよりましだがこれも2kg台の中盤くらい。軽量化を目指しているのにザックの自重が重いのは気が引けた。

 小川町のICI石井スポーツで、当初はマムートの比較的軽いモデルを選ぶつもりだった。早速店員さんに背負わせてもらったのだが、胸のあたりが妙に気になる。胸板の厚いヨーロッパ体形でないと合わないのではないだろうか。

次にオスプレーのイーサーというモデル。大きさのわりに軽量。ただウェストハーネスが貧弱で少し不安。これまで80L、25kgくらいの荷物を背負っていたので華奢に思えた。

最後にグレゴリーのトリコニを試した。値段が3万円以上するので物は試しというつもりだった。背負ってみると身体に合うという感じがする。なんというか赤ん坊が「もう離さない」としがみついてきたみたいに。私はトリコニを背負ったまま考えた。グレゴリーは「バックパック界のロールスロイス」と呼ばれるほど背負い心地に定評がある反面、値段もロールスロイスよろしく高価。

これまで肩が痛い、腰が痛いのを我慢してきた。グレゴリーがロールスロイスなら、これまではトラックみたいなものだ。迷ったが、社会人になって数年、これくらいは贅沢してもよい気がしてきて、気が付いたら店員さんに「これで!」と言っていた。

 

しばらくはどこに行くにもこのトリコニだった。

寝袋も新調してダウンにすると(これまで化繊だった)夏の2泊くらいは楽々だ。これまで80Lにパンパンだったのはなぜだろう。もはや前の荷物は背負い投げにしたくなる。

これを背負って最初に行ったのは北アルプス槍ヶ岳で、以降夏のテント泊縦走は全てこのトリコニとなり、エクスペディションはほぼお蔵入りとなった。

容量はSサイズなのでトリコニ60という名称だが58L。ただそれでも十分である。厳冬期も1人用テント、シュラフ、ガス缶・鍋、ダウンジャケット、アイゼン、ショベルまで入る。マット、ヘルメット、ピッケルはちょっと無理なので外付け。

バックパックの容量を減らせば荷物も必然的に減らせるものだ。

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北アルプス・徳沢にて

 

3.パタゴニア・アセンジョニスト45

トリコニで冬山を登っていた時、軽量化はほぼ完成だと思っていた。ここからさらに減らすためにはシュラフをグレードの良いコンパクトなものし、防寒着も根性でやや少なくするしかない。もうこれ以上は無理だ。

しかし、4年前、一緒に冬の仙丈ヶ岳へ一緒に行った友人は45Lのバックパックに個人用の全装備を詰め込んでやって来た。「ガチガチに詰めた」というパタゴニアのアセンジョニスト45は比較的小柄な彼女の体躯からしても小さなものだった。こうなると私の58Lなどまだまだ甘ちゃんだ。

彼女によると同じアルパインクラブに属するクライマーによってはアイゼンケースも邪魔なので、アイゼンはダウンジャケットでくるむ人がいるらしい。周囲は「ジャケットに穴が開くからやめろ」と言っているらしいが。

そんなエクストリームな人々に囲まれていると厳冬期装備を夏くらいの容量に納めることも当然となるらしい。

 

この山行の直後にパタゴニアの直営店で同じアセンジョニスト45を見つけた。

エクスペディション80がトラック、トリコニ60がロールスロイスだとすれば、アセンジョニスト45は必要最低限に削ぎ落としたF1。店の棚に積まれたものを持ち上げると、親指と人差し指でつまみあげられた。すかさず店員さんが話しかけてくる。

「いやー、それは結構大きいですよ」

「縦走やテント泊に使おうと思いまして」

どうやらその時私が背負ってきたボロボロの30Lバックパックの買い替えと勘違いしたらしい。その後のやり取りボロボロ君はまだ使うことを店員さんに納得させるには少々の時間を要した。

改めて見たアセンジョニストは45Lということでかなり小さく感じた。しかし、荷物の軽量化はある意味で決意次第のところがある。容量が45Lしかないとなればその分量に抑えるものであり、80Lあれば用もなく荷物を増やしてしまう。私はトリコニを背負い投げにして、この45Lに賭けてみることにした。

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北アルプス・夏の大キレット縦走時

このバックパック、生地はペラペラだが、背中にアルミフレームが入っていて型崩れしない。ウェストハーネスも薄いが、身体に密着させれば重量を支えるのには十分のようだ。

しばしば「大重量の荷物は腰で支えろ」と言ってウェストベルトが大仰なモデルが多く、先の2モデルもその類だった。しかし、このアセンジョニストは背中にしっかり密着させれば重量を支えることができることを教えてくれた。

 

上は夏の北アルプスを黒部湖から読売新道・西鎌尾根・大キレットを縦走して上高地に向かう山行をした時の写真。4泊5日、テント泊・自炊の装備を全て詰めると上部が膨れ上がった。アセンジョニストがうまくできているのは、45Lという表示ながら開口部にレインフライが付いており、上部の容量を少し膨らませることができることだ。夏の写真はほとんど終盤だったこともあり、上部はほぼ閉じているが、冬は下のようになる。

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八ヶ岳・美濃戸口にて

 厳冬期もなんとかこの45Lで対応できるようになった。

なんとも満足、満足なのではあるが、このモデルは現在廃盤になっていて、後継は40Lとなる。40で冬はさすがに無理かも。生地が薄いせいで私の愛用する45Lはどこかで崩壊するかもしれない。果たして壊れた時に次をどうしよう。今は戦々恐々として安易に背負い投げはおろか、腰掛けて休憩もできずにいる。

*1:ここに紹介するバックパックは2019年1月時点で全てリニューアルまたは廃盤になっている

パタゴニア ガルバナイズド

久しぶりに冬山用ハードシェルを買った。パタゴニアのガルバナイズドジャケットとパンツ。ウェブアウトレットで安くなっていたので衝動買いしてしまった。ちょっと大きめの買い物としては久しぶりなので興奮する。

2018年の締めくくりとして八ヶ岳に着て行ったので、アウトドアライターを気取って少しレビューを書いてみたい。

 

 

まずはジャケットの方。手に取っての感想は表面はレインウェアと違ってハードシェル独特のザラ付いた感触ではあるが、他社に比べるとかなり薄い。冬のハードシェルとして使っていたTHE NORTH FACEのクライムライトジャケットとどっこいどっこい。あちらは剛性が足りないのでお店の人に「厳冬期は使わないでください」と言われたのに比べると少しは耐久性はありそう。まあこれまでクライムライトも厳冬期にガンガン使ってのだが。

 ウェブ画面で見ているとオレンジという感じに見えたが、届いてみるとむしろ赤に近い色で実物の方が良かった。

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実際に使ってみると、裾は長いので雪山には充分だ。これまでクライムライトは裾が短くてお腹がよく冷えた。軽さと剛性は両立されている。防水透湿はH2Oというパタゴニアオリジナル素材だが、雪山なら別にGORE-TEXにこだわる必要はないだろう。

厳冬期用のジャケットは脇下にベンチレーションとしてジッパーが付いているモデルが多いがこれには付いていない。個人的にベンチレーションは不要だと思う。理由として、開けると閉め忘れる、開けた後に閉めるのがややこしい。冬用のゴツイ手袋ではとにかく開け閉めが面倒なのだ。私は暑ければせいぜいフロントジッパーを上下させて調節する程度。冬にめちゃめちゃに汗をかくほどの運動をしたらベンチレーションの有無より前に汗冷えして危険なことになる。

 

ポケットは左右のお腹に1つずつ。そして胸の真ん中に1つ。私は何かと胸の真ん中にあるポケットを重宝している。

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胸ポケット

今回この胸ポケットにはオリンパスの防水コンパクトカメラを入れた。サイズとしては ぴったりだった。

 

今回はヘルメットをかぶらなかった。かぶる場合に気になるのがフード。フードはきっちりヘルメットをかぶった頭が収まるサイズになっている。

ここで個人的に気になるのはフードを調節するヒモで、風が強ければすぐかぶりたい。一方で仲間の声が聞こえにくいので、いつもかぶりっぱなしも不便だ。パタゴニアの調節ひもはグローブをしていても十分引くことができる。フードを外すときは、最初の写真の首元に注目、首元にあるボタンを押せば締めたひもが緩む。ウェストのひもも同様の構造になっていて、裏の状態は下のようにシンプルだ。

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裾ひも

不満があるとすればジッパーがどれも固い。開け閉めが固いのが止水ジッパーの欠点ではあるものの、結構固く感じる。おまけにジッパーを引くための紐が華奢なので、紐がちぎれそうで不安になる。軽量化はわかるが厚手のグローブでも引きやすいようにもう少し丈夫な紐で、ジッパーももう少し開け閉めしやすいものに改善してほしい。

 

今度はパンツ。かなりペラペラ。レインウェアかというくらいの生地の厚さ。ただ履いてみるとフィット感はさすがだ。172cm、58kgでXSサイズで、丈もウェストもぴったり。今までモンベルアルパインパンツを履いていたが、サイズはMの丈LONG。普通のMサイズは丈が足りないのでLONGにしたら、尻や太腿はブカブカした。

ただし、このパンツはペラペラゆえに乱暴に扱うのは躊躇われる。尻セード愛好家としてはちょっと残念。千畳敷カールなんかは登りに50分かかる斜面を3分くらいで下れるのだけど。まあそのうち気にしないで尻セイダーに戻るかもしれない。

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ベルトがビブタイプ、サスペンダーになっているのがパタゴニアの特徴。冬は重ね着になるので特にウェスト周りはベルトだらけになる。ただ以前に買ったパタゴニアのソフトシェルパンツはサスペンダーが長いのか私の胴体が短いのかすぐに外れて役に立たなかった。今回は大丈夫そうだ。

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サスペンダー

履いて行動してみるとこれまで使っていたモンベルのパンツより細身なのがありがたい。冬用なので夏より少し太めなのはわかるが、股の間がシャカシャカこすれるのが気になっていた。ガルバナイズドは内股に歩かない限りこすれない。

裾は軽量化のためなのか、雪よけになるものは一切付いていないので、深雪ではスパッツが必須だ。私は今回、ゲイター付のシューズを使ったのでスパッツは着けずに使用した。八ヶ岳のように通年で人の多いエリアは深雪箇所が少ないという事情によるものだが。

 

 話は変わるが、パタゴニアの商品名は他のメーカーと違う。他のメーカーは山の名前や地名や用途をそのままというケースが多い。アコンカグアジャケットとかアルパインなんとかとか。パタゴニアは英語の国のメーカーだから(アメリカだし)辞書を引かないとわからない単語が時々出てきて面白い。

今愛用しているのはアセンジョニストの45と30なのだが、まず名称の意味がわからなかった。調べてみるとascensionは「昇天」という意味らしい。つまりascensionistは登攀者という意味らしい。登攀ならいいが、昇天じゃちょっと困ってしまうんだけど。Googleで調べるとキリストを中心とした宗教画がいっぱい出てくる。

ではガルバナイズドはどういう意味だろう。調べると亜鉛メッキと出てきた。かつて屋根材の種類を勉強した時にガルバニウム鋼板というのを習ったが、これは亜鉛メッキされたアルミニウム鋼板で、トタンの数倍の耐久性があり、ちょっとシャレた住宅の外壁や屋根に使われている。トタンは錫メッキですぐ剥がれて中の鉄が錆びてしまうが、亜鉛メッキははるかに頑丈なので外壁などに使っても大丈夫なのだ。

話が逸れてしまった。亜鉛メッキの耐久性にあやかって軽くて頑丈なハードシェルということで名付けたのかな。あとgalivanizeで電気刺激するという意味もあるらしい。ということはガルバナイズドの意味は”ビリビリ”という意味なのだろうか。

書いておいて結論が出ない。

 

まだ1度しか使っていないが、このガルバナイズドジャケットとパンツは非常に軽量での作りに不満はない。あと真価が問われるのは生地やジッパーの耐久性というところになるだろうということでまとめにしたい。

一富士

1月3日、実家のある関西から関東へ帰るべく東京行の東海道新幹線に乗り込んだ。晴れた日に新幹線が新富士駅の手前を通過すると、左手に富士山が姿を現わす。窓側のE席が富士見の特等席だが、自由席では早い者勝ちですぐに埋まってしまった。仕方なく反対側の窓側A席に座る。

京都を過ぎて米原あたりでは空は灰色の雲に覆われ、小雨が降り出した。それを見ていると今日はどうせ富士山は見えないかと妙に安心する自分に気が付いた。

 

私が初めて富士山を仰いだのは小学校の修学旅行のときだった。当時は富士山が円錐形の山であることは知識としてしっているだけで、実在する山として認識していなかった。おむすび型のきれいな形をしているが、どこか現実感のない山。松竹の映画の最初に出る山。富士山とは日本という国家が観念的であるのと同様に日本の象徴として抽象的な存在ではないかと思っていた。

京都駅から乗車した新幹線こだま号が1時間も走ったころには新幹線に乗るという興奮はすでになかった。退屈した子どもたちは1人500円までのお菓子に夢中になっていた。

私はずっと外を眺めていた。名古屋から静岡駅までずっと平地が長く続き、時折街が現れたり湖が現れたりした。概ね単調だったがそれでもよかった。ところが静岡駅を過ぎると景色が突然トンネルになった。「なんということだ、これでは景色が見えないではないか」と独り憤っているうちにトンネルを抜けた。

トンネルを抜けると窓いっぱいに巨大な影が見えた。影は新幹線の小さな窓では到底入りきらないようだった。「富士山だ!」という声を聞いてハッとした。これは影ではない富士山だ。今まで半ば幻想と思っていた富士山が目の前に実在としてあった。富士山は漫画のように上だけを白く染めているのではなく、初夏なのでただの蒼い影だったが、左右に下ろした裾は漫画以上に優美で迫力に満ちていた。

富士山は日本一の姿だと感じた。

 

次に富士山を拝んだのはずいぶん後になる。

大学最後にアメリカへ行き、サンフランシスコから戻ってきた時のことだ。行きはバンクーバーでトランジットしたが、帰りは直行便を取ることができた。しかしながら、直行はトータルでは早いものの1回の飛行時間は長い。日本上空に近づくころには退屈はもはや苦痛に変わっていた。1冊だけ持って行った本は山本周五郎の『おごそかな渇き』だったが、アメリカ滞在中はほとんど読んでいない。本のチョイスミスは多少長い旅行では辛い。

着陸予定時間に徐々に近づき、退屈からもう間もなく解放されると思い始めたころ、機内アナウンスが入った。

「機長の〇〇です。ただいま日本上空に差し掛かかっております。機体右手では富士山が皆様のお帰りを歓迎しております」

右の座席にいた私が窓から見下ろすと頂上から三分の一くらいを白に染めた富士山があった。火口も裾も同じようにまん丸で、なぜあんな均整の取れた造形が日本列島にできたのだろう。いくら高くてもエヴェレストの形を想像できる人はそうはいない。ところが富士山はどこから見てもその造形の妙を感じることができる。

機長の粋なアナウンスはアメリカから帰る私には改めて富士山の不思議に気づかせるものになった。

 

以降、登山をするたびにどこかで気になるのが富士山だ。富士山を見ることができればオーライ。雲取山丹沢山大菩薩嶺甲武信ヶ岳北岳。どの山でも富士山はいつも変わらぬ円錐型だった。そして富士山が見えればその山行は満足だった。満足とすることにしていた。

富士山自体には5回登った。しかし、ほとんどトレーニング目的で、他の高山から眺める富士山に比べるとなんて満足度が低いのだろう。富士山はつづら折りのひたすら単調な登りだ。そのくせ5回も登っているのは自分でも不思議だ。これは円錐形の魔力だろうか。

下の写真は5月に金峰山から撮ったもの。一緒に言った韓国人の友人が言った。

 「松竹っていう感じですね!」

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 今回、名古屋を過ぎると空はみるみる晴れて、新富士駅に近づくころには白い頂とわずかに雲をたなびかせた富士山が姿を現した。

窓の外を見向きすらしないでスマホの画面を凝視する乗客を見ると、「ほら富士山ですよ~」と呼びかけたくなった。私が反対側の窓側席から窓を覆い尽くす富士からさりげなく眺めていた。

昼食難民

都内の事務所に勤務してもう何年も昼食は弁当にしている。他人からは慳貪あるいは節約によるものと見られるが、これでも最初の2年くらいは外食だった。しかしそれを弁当に切り替えたのはそれなりの理由があるのだ。

 

会社は都内山手線外の某駅の近くで、外食には困らないくらいの店舗が存在しているはずなのだが、始終昼食には困っていた。

東京勤務の最初の頃に行った(行かされた)のはある地下にある喫茶店だった。昼は喫茶店、夜はバーになる店で、昼食はパスタ・ハンバーグ・カレーを出していた。その店によく行く理由は部署の大半が喫煙者だったからだろう。そして、ボスは煙草を吸わないのだが、週刊誌を読めるということにメリットを感じていたようだ。私にとっては煙草も週刊誌も興味がないので待ち時間が苦痛だった。

さて、料理はというと不味くはないのだが、奥で料理している気配は一切ない。おそらく業務用レトルトを温めて皿に載せるだけだと想像できる。給仕をしてくれるのはなぜか50オーバーのおばちゃんばかりだ。

コーヒーが付いて1000円。しかもメニューは毎回5種類くらいで、ミートスパゲティとカレーとハンバーグ定食はレギュラーメンバー。つまり、残るふた枠をその日の仕入れによって流動させるという乱暴なものだ。

何回も行っているといい加減怒りを覚えるようになった。

 

次によく行ったのは縦に長い蕎麦屋。縦に長いと表現するのは狭いビルを1階から3階までを店舗としているからで、1階に厨房があって少々の席がある。2階から3階までは座敷で、ちゃぶ台と座布団だけがある。大人数で行くと大抵狭い階段を上って2階か3階に通されることになる。そして腰の折れたおばあさんが階段を伝ってやってきて注文を取り、注文の品を届けてくれるわけだが、狭くて急な階段を往復する姿は見ているこっちが怖くなる。

蕎麦屋なのでメニューのメインはもちろん蕎麦。鴨南蛮なんかはこの店で初めて食べた。蕎麦は関西より美味い気がするが、ダシは関西人としては風味が乏しくてあまり好きではない。鴨南蛮の甘いツユも今一つだし、鴨を名乗っているが本当は鶏なんじゃないかと思える味なのだ。

しかも一食を蕎麦だけで済ませるのは気持ちもわびしいし、栄養上ももちろんよろしくない。結局この店で最もよく食べたのはカレーだった。ただし、そこのカレーが特別美味いわけではなく一番腹が膨れるというだけの話だ。

 

蕎麦屋は他にもあって、縦長の他に横長というか奥に広い店もあった。こちらは蕎麦弁当というのが名物で、蕎麦にご飯と若干の副菜が付くものなのだが、あっさりしているくせに量が多くて難儀なメニューだった。

天麩羅屋も行ったが、ひどくベチャベチャで天丼なら食べられるが単品では食べたくない代物だ。おまけに老夫婦で経営しているせいか時間がかかる。私は食べるのが人一倍遅いので昼休み中に食い終わるかが気がかりな食べ物であった。

揚げ物ではトンカツ屋もよく行った。周囲をビルや民家に囲まれた中の平屋の民家を改造した隠れ家的な店で、手前にカウンターとテーブル席、奥に座敷という構成になっていた。ここは「イチローの父親が好きな店」と大先輩から聞いた。イチローがよく通うならすごいが、その父親(大先輩はイチローの父だから「チチロー」と呼んでいた)が来てもすごいこともなんともない。「そもそもイチローって愛知出身じゃなかったか?なんで都内のこんな店に通うんだ?」と疑問符たっぷりの店なのである。この大先輩の話がウソの可能性も大いにある。

味は美味いことは美味い。定食で800円か900円くらいだったかな。ただ、いくら美味くても毎日トンカツは食べられない。

 

昼食は困ったら中華の原則があると思う。野球のキャッチャーが困ったらアウト・ローを要求するように、価格も味もまあ痛い目には合わない。さすが4000年の英知は食に詰まっている。

世のサラリーマンたちも困ったら中華屋に行く。私がよく行ったのは通称「ゴールデン・ゲート」という中華料理店。汚いビルの1階から3階までを使っており、広いことと煙草が吸えることメリット(私にとってはデメリット)であった。

初めて行ったときに先輩社員に訊くと「茄子そば」が名物だという。名物だと言われたからには仕方ないので注文したら、文字通り焼き茄子のようなものの載った中華そばがやって来た。食べると普通の中華そばに特に味のしない茄子がいるだけで、なぜこれを組み合わせたのかさっぱりわからない。

茄子そばは意味不明だったが、ここの餃子やチャーハンは美味い。ただ週1回通うというほどではないし、量が多くてデスクワークでは過剰摂取になりそうだった。

 

その他にもハンバーグやらカットステーキの店やらいろいろ行ったが、コッテリの肉料理が多い。「大戸屋」のような焼き魚を食べられる店はすごい混雑なので、結局は個人経営のそれほど混んでいない店に行って蕎麦や中華や揚げ物で食傷気味になる。

かくして2年弱ほどは外食に付き合ったものの、耐え切れず途中からはスーパーの弁当を買い、出来合い弁当にも飽きたので自分で作ることにした。安いし不味くても自分の責任。高くて不味い料理を食べるよりよほどいい。何より自分でメニューを決められる。

サラリーマン的社会性はどんどんなくなったが、料理の技術と血液検査の結果はこれによって格段に向上したのだった。

北海道自転車放浪記-9

自転車旅に「放浪記」というタイトルは少しそぐわない。自転車族はどこかを目指して走っているので、あまり無目的に「放浪」している人はいない。目指すのは大概が端っこで岬などが目的地になり、自転車を今日も明日も東へ西へ、北へ南へ走らせることになる。

では、なぜ「放浪記」とタイトルを付けたかだが、私が出会った自転車人は定まることなく人生を放浪しているように感じたからだ。自転車にテントを積んで無料の宿泊施設を渡り歩けば1日2000円くらいで生活できる。年間にして73万円。年収が100万円と聞けば一大事のように聞こえるが、野宿生活なら十分生きていける。年収500万円をもらうのと引き換えに1日8時間、年間200日以上を差し出すことに意味はあるのだろうか。

この時の私は大学の4回生。次年には就職し人生の方向が定まると感じていた。その一方で人生を放浪する旅人たちとの交流はささやかな私の人生観を揺さぶる波を起こしていた。

 

襟裳岬からは海岸線を苫小牧に向かい、そこからフェリーで福井県敦賀港を経て帰宅するつもりだった。

そして最後の夜もキャンプにするつもりで無料のキャンプ場にテントを張った。テントは父親自慢のダンロップテント。なんと結納返しに祖父からもらったといういわくつきの品で、購入から20年以上を経過してもはやボロボロになっていた。最も困るのは雨で雪山を想定したこのテントのフライシートは全体の半分しかカバーしない。旭川の近くのキャンプ場でテント張った時には観測史上初という大雨に見舞われ、テントの天井から水しぶきが降ってきた。しかしそんな日ももう最後である。

テント場は湖畔であまり整備はされておらず、人は全くいなかった。最後の晩は独りかと考えていると、原付に乗った人が現れた。背が高く、色黒で最初は男女の区別もつかなかったがどうやら女性だ。

「小笠原から来ました」

確かに彼女が跨ってきたミニカブのナンバープレートには「小笠原村」と書いてあった。「どうやって来たんですか?」と尋ねると

「父島からフェリーで東京に行って、ひたすら一般道で青森に行って、フェリーで北海道に渡りました」

小笠原村の人など初めて見た。というか小笠原村って村なんだな。スーパーで買った鳥の砂肝を勧めると「砂肝ってめったに食べられないので嬉しいです」と言う。

「小笠原では食材がどれも古いんです。全部本土から届くから賞味期限なんて2ヶ月か3ヶ月過ぎているのが当たり前で」

日本もいろいろだなぁと思う。北海道のようにあり余る土地に食物が育つ地域があるかと思うと、生活物資や食品の多くを輸入(?)に頼らなくてはならない島がある。

自分が小笠原出身だったらと夢想してみる。周りにはきっと島からめったに出ない人もいるだろう。若者は都会に憧れるだろう。自分も島の景色に見飽きて、原付を駆って北海道まで来るだろうか。きっと行くんだろうな。

 

最後の日は苫小牧でホッキ貝丼を食べ、ビールを買って夕方のフェリーに乗った。

曇り空の甲板で海を眺めながらビールを飲む。北海道の大地に憧れて北へ向かったが、思い出すのは出会った人ばかりだ。北海道自転車旅の収穫はウニを食べたことでも知床の景色を堪能したことでもなかった。広い大地で日本全国から集まるさまざまな人に出会い、その人生に触れたことだった。

8月がもう終わろうとしていた。

北海道自転車放浪記-8

多和平からは阿寒湖方面に向かい、途中1泊して帯広に向かった。北からの追い風の中、まっすぐな道を滑るように進む。時折風の中に獣の匂いが混じり、しばらく走ると牧場が姿を現す。巨大な米俵のような藁の塊がぽつぽつとある。牧草ロールと言うらしい。

途中、せっかくなので牛乳を飲んだ。美味い。常に空腹状態なのでなんでも美味く感じるけど。

北海道にはMDを何枚か持って行っていた。別に北海道だからといって松山千春を選ぶわけではない。自転車でアクセク走るのに透き通った声で歌われると気が抜ける。さだまさしの「北の国から」もそぐわない。よく聞いたのは大塚愛で、なぜというと理由は特にないが、孤独な自転車旅には明るい歌が合うというのが持論だ。

 

帯広では「大正カニの家」というところに泊まった。徒歩・自転車・バイクの人は2泊まで無料。立派なロッジで、太陽熱温水器が付いているので夏ならシャワーも浴びることができる。シャワーを浴びてすっきりした。

近くのコンビニで食材を買いこんで、ロッジの表にある自炊スペースで米を炊いた。辺りには食事をする場所もないらしく宿泊者はみんな食べ物を持って集まってくる。ライダーはあまり料理をしないのか、コンロを持っている人は少ない。1人だけコンロを使って豚肉とネギの炒め物を作る。私は作った量が多いので何となく周りに「良ければどうぞ」と差し出したのをきっかけに数人での会話が始まった。

やがて1人の男性が「俺はこんなことしかできないから」と言ってビールやチューハイの缶を置いた。見知らぬもの同士の乾杯。暗闇がせまり、灯りのないスペースなので顔もよくわからない者同士の不思議な宴会だった。

 

帯広からは一気に南下して襟裳岬を目指した。

襟裳岬までは「黄金道路」と呼ばれる海岸沿いの道を行く。「黄金道路」は金に関連するというわけではなく、「黄金を敷き詰めるくらい金のかかった道路」ということで付いた名称らしい。複雑な海岸線を削り、くり抜き、険しい岩壁の上に道路が築かれている。

自転車でこの黄金道路を行くのが面白いかというとそうでもない。細かいアップダウンで疲れるし、後ろから来る車にも気を使う必要がある。この旅行のためにホームセンターでハンドルに巻きつけるタイプのバックミラーを買ったが、車のスピードの速い北海道では必須だった。

襟裳岬の手前のキャンプ場で一泊する。芝生の気持ちの良いテントサイトで近くに温泉設備もある。温泉設備は地元のおじいさんでいっぱいだった。テントサイトで夕食の準備をしていると、自転車の兄ちゃんがいたので一緒に夕食を食べた。

「東京から来ました」と兄ちゃんは言う。東京から東北を経て北海道に渡ったらしい。自転車はまともなマウンテンバイクだったが、荷物はキャリアに括り付けただけという乱暴なもので、装備はかなり少ない。自炊もしないと言うがよくそれで走れるものだ。私はコンビニ弁当では3日で飽きてしまう。適当に作った「おからと豚ひき肉炒め」を勧めると「いや~、美味しい。もうちょっともらえますか?」と言ってもりもり食べる。相当に飢えてたらしい。私にとっても赤の他人に自分の作った食事を提供する体験はこの北海道旅行が初めてで、「美味しい」と言ってもらえることに初めてささやかな喜びを感じていた。

 

当初、襟裳岬が最後のハイライトのつもりだった。ただ、キャンプ場から翌朝行ってみるとスピーカーから割れるような森進一の「襟裳岬」が鳴り響いており、特にファンでもない人間からするとやめてくれという感じだった。

襟裳岬の先っぽを見物した後、岬の近くにある店に入り、朝ご飯に「ミニうに丼」を食べた。そうすると、海の見える席から「お~!来たか」と声をかけられた。その日の朝にキャンプ場で会ったおじさんだった。なぜか自転車に興味深々だったのだ。

「自転車なぁ。自分でもやってみたいけど自信もないから車で走ってるんだ」

おじさんは自転車に若者のロマンを感じているらしい。私ともう1人自転車の人を自席に招いて3人でうに丼を食べた。おじさんは「ここは奢らせて」と言ってさらっと3人分を支払った。

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