クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

お葬式について考える

ニュースを見ると「国葬」議論で盛り上がっている。

そう書いてみたものの特に政治的なお話を書こうというわけではなく、「お葬式」というものについて思ったことを書いてみたい。

 

お葬式と言って思い出すのは、30年くらい前に祖父が亡くなった時はずいぶん人が来て大変賑やかだったことだ。かなり遠縁の親類までいて、大人たちは夜遅くまで話していた記憶がある。

豪放磊落で知られた祖母の兄がシベリア抑留の話をして、棺の前に皆が笑い転げたという。シベリア抑留をどう面白おかしく話したのか。聞いた人たちに確認してもみんな覚えていないという。ぜひとも生で聞きたかった。

こういう賑やかな葬式もいいなと思う。

一方で、何とも言えない気持ちになる話も耳にした。

ある家庭は昔自宅の裏で工場を営んでいた。羽振りのいい時期もあったらしく、ブランド品もずいぶん持っていた。有り金はぱっと使ってしまうという生活だったらしい。その後、商売は傾き、工場は閉鎖。すでにいい年だったので、国民年金で慎ましい生活を送るようになった。

しかし、ここで誤算だったのが娘が戻ってきたことで、精神を病んだとかで実家で生活するようになる。家族3人が国民年金2人分で生活するのは難しく、たちまち困窮するようになった。

そのうち父親が死去。金がないので葬式も挙げず、読経もなく、火葬のみで共同墓地に埋葬された。

家族がいるのに無縁仏のような扱いになるのは他人が聞くと不人情な気もする。もちろん赤の他人のたわごとに過ぎないのだが、もうちょっと家族は何かできないのか。あるいは本人は葬式か埋葬代くらい残して死ぬ方がいいのかと思ったりした。

「世界一のケチ」で知られるヘティ・グリーンという女性実業家のお葬式はある意味で皮肉だったりしたようだ。

ヘティ・グリーンは1900年代初めに投資によって巨額の資産を築いた実業家である。世界恐慌を予測し、恐慌の起きる直前に預金を一気に引き出し、銀行をいくつも潰したという。

「慳貪」とはこの人物のためにあるような言葉で、それほどの大金持ちにもかかわらず、金を使うのは大嫌い。冬はコートの下に新聞紙を挟んで防寒着としていた。

その大金持ちは莫大な資産を築き、そして使い切ることなく卒中で亡くなる。

そして息子はその遺体を一等列車に載せて運んだ。もし生きていれば乗るはずの一等列車に。

 

お葬式というのは死者のためでなく、遺された者のためにある。

国葬の議論も結局は死者の意思ではなく、遺された者の考えによるものなのだ。