クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

「最高のぜいたく」について考える③~居候の美学

先日、ラジオ番組にタモリが出ていて思わず聞き入ってしまった。

タモリは昔、赤塚不二夫のところで居候していたらしい。その頃の言い分が面白い。

「居候はペコペコしちゃいけない。こっちは居候のプロなんだから」

居候にプロもアマチュアもあるのか知らないが、居候は赤塚先生のスポーツカータイプのベンツに乗り、先生の買って来たビールを飲み、得意の宴会芸を披露していた。

居候で無職というと顔をしかめる人も多いが、宴会芸のために居候を置いておくというのは赤塚不二夫はある意味で"ぜいたく"な人だ。そして居候の方も宴会芸を磨くだけでお気楽に過ごす"ぜいたく"を味わうことができる。双方にとっての「最高のぜいたく」と言えるかもしれない。

その意味では私の弟もまた"ぜいたくな男"と言える。

彼は今まで正式に就職したことなく30歳を迎えている。ただ、親のすねかじりというわけではなく、大学を卒業以来、奨学金やら研究補助金なんかで自立して暮らす研究者である。

大学院は奨学金アメリカに行き、その後も気づけばイタリアにいたり、南アフリカの学会に出かけていたりと世界のあちこちに出没している。好きな研究をし、世界のあちこちに行き、時々好きな美術館に行く。

今度帰国するが、出国するまでしばらくは無職となりそうだ。東京で美術館巡りをするらしく、わが家で「居候」となる腹づもりらしい。

本人は自らを笑いながら「高等遊民だ」と言う。これもまた「最高のぜいたく」なのである。

 

私が高等遊民という言葉で思い出すのは夏目漱石の『それから』に登場する代助である。もともとこの言葉自体が漱石の創作であるという。

代助はあくせく働くのをバカにしていたが、人妻と道ならぬ恋に落ちて親から勘当されてしまう。そしてあくせくと働く羽目に陥ってしまう。

読み方によっては恋愛ものと言えなくもない。ただ、私が気になるのは「働く」ということだ。俳優にしてもミュージシャンにしても働いて稼いで「ぜいたく」をしている。最初は楽しくてやっている仕事かもしれない。それがプロとなったら楽しめなくなってしまう。それを埋め合わせるための「ぜいたく」だとすると少し虚しいかもしれない。

楽しみながら働けるのならそれがベストだ。それがたとえ居候であっても「最高のぜいたく」を体現していると言えるかもしれない。