そろそろ映画ネタも尽きてきた。
というか週末に映画を見る時間すら尽きて、もう1ヶ月近く休んでいない。社畜なんて冗談で言っていたら、これは本物になってしまった。
早く山か川に行かないと人間でなくなりそうだ。
「プライベート・ライアン」を見た。
最初に正直に言うと、最後まで見ていない。あまりに長いので途中で寝て、そのままTSUTAYAに返却したからだ。仕事のためにラストシーンを見逃した格好である。
冒頭はノルマンディー上陸作戦で、さすがはスピルバーグ、さすがはハリウッドという迫力だ。比較すると失礼だが、「永遠のゼロ」はCG映像がおもちゃみたいで、かえって興醒めした。日本映画はあまり迫力を追求しない方がいいのかもしれない。
それはさておき、少し前に第一次大戦を舞台にした「アラビアのロレンス」を見たが、「プライベート・ライアン」の画とはかなり違う。「アラビアのロレンス」はすべてが絵画的で、大きな画角に人がぽつりと配置されていて、広い砂漠が強調されている。広大な世界をさまようロレンスを見ていると、映画の鑑賞者までが違う世界に移っていくような気がする。
それに対して「プライベート・ライアン」の戦闘シーンは全く違う。敵から受ける弾も、応戦する銃口の先も、個人目線なのだ。映画を見る人はあたかも自分が戦闘に参加し、命を危険に曝し、痛みを感じるような感覚になる。
このヴァーチャルリアリティがスピルバーグの真骨頂といわれるところであるが、私にはこの2つの映画にはもう一つ大きな違いがある気がする。
「アラビアのロレンス」と「プライベート・ライアン」の違い。それは戦闘が極めて個人的なものになったことである。
しばしば2つの世界大戦では多くの一般市民が犠牲になったと言われる。その側面はあるものの、犠牲とともに戦争に参加を余儀なくされたと言う方が正確ではないかと思う。国民は国家の大義、総力戦の名の下に直接、間接的に戦争に参加している。
しかし、国民すべてが大義に協調しているわけではなく、戦争が大きくなればなるほど、戦う理由、大義を人々は失っていったのではないだろうか。
「プライベート・ライアン」はライアンという二等兵を救えという任務にあたるアメリカ兵数人が主役の映画だ。将軍ならともかく、二等兵を救うというトップ命令に兵士たちは戸惑いつつも、ドイツ軍と戦闘を繰り広げながらライアン二等兵を探す。
この映画の戦闘シーンはほとんどが個人視点で描かれている。狙撃され、撃ち返し、味方が倒れというシーンが全て俳優の目線で進んでいる。それはリアリティを追求するためだけの手法と言えなくはない。
しかし、私にはこの映画の内容も相まって、戦争が個人的な対象物となっていく様に見えてならない。ライアン二等兵を探し、命懸けで救出することは、あくまでトップの指示であり、政治的な宣伝のためかもしれない。ただ、兵士たちが徐々に真剣になる様はどう見ても任務を超えたものである。
遠い異国での闘いは、国家の大義からプライベートな情熱に移り変わったようだ。
さて、私は滅私奉公、自己犠牲の状態で会社に出勤している。
少しプライベートな闘いに熱意を傾けた方がいいということだろう。