クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

甲斐駒ヶ岳と未知への探求〜五名山を選んでみる

「なぜ山に登るの?」

と正面切って訊かれると、困ってしまう。たいてい写真なんかを見せて

「ほらきれいでしょ?」

と返すのだが、

「ああ、私登らなくてもこれ見ているだけでいい」

となる。

私も登っているときは「家でゴロゴロしていればよかった」と思うこと度々で、なんでこんなことをしているのかわからなくなることがある。

ただ、登らないと見れない景色に出会うと、ようやく来てよかったと思うという具合で、「未知との遭遇」という魅力のみで登っていると言っていい。

 

JR中央本線で、甲府から松本に向かう時は、向かって左を、松本から甲府に向かう時は右を見ることにしている。穴山、新府の山間部を抜け、視界が広がると甲斐駒ヶ岳の雄姿が見えるからである。

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日野春駅から望む甲斐駒ヶ岳

甲斐駒ヶ岳は、江戸時代の行者・小尾権三郎(弘幡行者)によって開山されたという。

時は文化年間の1816年、将軍・家斉の時代。江戸では葛飾北斎に代表される浮世絵や、式亭三馬為永春水などの作家が人気となり、化政文化が花開いていた。

その一方で、富士講が盛んになり、甲斐駒ヶ岳開山の12年後の1828年には播隆上人が槍ヶ岳に登頂するなど、登山ブームを感じさせる出来事が相次いだ。

 

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冬の黒戸尾根を登る



化政文化元禄文化と比較して成熟した文化と言われる。ただ華やかな元禄文化と異なり、退廃的、刹那的で、人々の何かに対する不安な雰囲気を漂わせている。飢饉と倹約を旨とする改革、貨幣経済の浸透など、価値観の揺れ動きに現実の心もとなさを感じたのではないだろうか。上田秋成の『雨月物語』が人気となった背景も、神秘への憧れと不安があるように思える。

 

平安時代末法思想と共通するのは、不安な時代におけるスピリチュアルブームである。お陰参りや善行寺参りとともに江戸・開山ブームが起きた。私は、スピリチュアルの先にあるのは未知の世界への探求、渇望ではないかと思ったりする。

末法も江戸のスピリチュアルブームも、何か行き詰まりを感じる時代に、人々が未知なる力に惹かれ、一部の人たちが先鋭化し、山に向かったのではないだろうか。

剱岳の登頂も平安時代だという。平安朝にも時代の閉塞感を突き破るために山に向かったとしか思えない。

 

なんだか堅苦しい話になってきた。 

甲斐駒ヶ岳は黒戸尾根から登るのが正しい。

麓の北杜市には竹宇駒ヶ岳神社と横手駒ヶ岳神社があり、山そのものがご神体となっていて、黒戸尾根こそご神体登山の登路である。尾根は黒戸山を除いてほぼ登り、登り、登り。

ただ、途中には宝剣をかたどった岩や不動明王が常に守りについている。

 

 黒戸山から一度は五合目の小屋跡に降り、再び七丈小屋まで岩と梯子の続くルートを登る。冬は微妙に凍結して、クランポンを着けるか迷うところだ。

 大抵は七丈小屋に一泊して、翌朝に頂上へ。黒戸尾根からの往復は一泊二日コース。そのまま北沢峠に下りることもできるが、バスがないと川沿いを下って戸台口まで行く必要があり、もう一泊が必要か。

いずれにしても長い旅だ。

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 歴史を連ねて書いてみた。

しかし、歴史を振り返ると、山に向かうのは、現代人がリフレッシュに旅行に行くのと変わらないのかもしれない。僧侶や行者が山に向かうのは、いかにも宗教的な行としての意味を持つようだが、実際はリフレッシュ休暇みたいなものだったのではないだろうか。

そんなことを思いつつ、私は天気の良い休日を狙ってふらふら山に向かっている。