クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

山と街とコロナ~登山 with コロナ考

今、週に1度の在宅勤務をしている。週に1回だから、会社のオフィスそのものの出社率は7割くらいで、「ちょっと意味あるのかい?」という気がしている。

それはともかく、今は街を歩けばみんなマスク姿で、電車に乗っても、公園でジョギングしても。肉付の面のようにマスク姿以外の顔を見ることがない。オソロしい世の中である。

去年の今頃は想像だにしなかった。

 

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最終的に泊まった高見石小屋はガチガチのコロナ対策ではなかった

 

先月、八ヶ岳に行った時も山小屋スタッフからハイカーまでマスク姿で、白駒池では小屋の前にアルコール消毒まであり、コロナの脅威を思い知った。

何が脅威か。

山小屋では十分な水がないケースが多く、トイレの後に手を洗わない(洗えない)ところもある。水があっても雨水ということもある。衛生上は多少我慢が強いられるのが山であり、そこまで潔癖症ではないのが登山者である。トイレで用を足したら手を洗うというのは街の論理で、山では清潔を保つより水の方が貴重なので、手は洗わない。

山の中では、街とは違った常識がいろいろあり、最初はちょっととっつきにくいところがある。しかし、山では山の法に従わなくてはならない。それは法律がどうこうという問題ではなく、山ではそれが合理的だからだ。

 

新型コロナウイルスはウイルスの存在が発見され、姿が見える(もちろん肉眼ではないが)状態にありながら、誰が感染しているのかわからない。そのあたりが中世ヨーロッパのペストなどとの違いである。

しかし、私はただ感染に関してコロナウイルスが脅威だと感じているわけではない。街でも山でも感染は同様に怖いし、密になれば感染リスクは上がるだろう。

それより脅威はコロナ対策と街の論理が一気に街から山に押し寄せたことだ。今までトイレの後で手を洗わない、山小屋で混んだ時は1つの布団で他人同士が寝るとかの街とは異なる山の常識があった。

それが今回は街で形成されたコロナ対策の常識が時を置かずして山に流れ込んだ。当然、山小屋は戸惑い、多くのエリアでは今年の営業を取り止めざるを得なくなった。

街とは違う清潔に対する閾値でやってきた山小屋に街の基準がやってきたのだ。

 

テントの予約制の時もある種の違和感を感じた。

観光地なら飛び込みの宿泊で断られるのは普通だ。それが登山で、しかもテントでも断られるとなると山の中に街が移動してきたようだなと。

yachanman.hatenablog.com

山小屋経営者などはいろいろ腐心していて、身勝手なことをむやみに書くのは少々ためらわれる。

ただ、過密都市・東京の都心部という特定の場所で形成された価値観が、地方、そして山まで覆いつくすのに私は薄気味悪さを感じずにいられない。