クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

外れ者の優等生

晦日は久しぶりにボクシングを見た。

井岡一翔田中恒成。別にどちらの肩を持つでもない。単に相方のじいちゃんが見たいというから一緒に見た。

試合はなかなかの熱戦で、つねんい前進しながら攻める田中。チャンピオンの井岡はガードしながらカウンターを狙う。

じいちゃんは「おお!田中の方がよさそうだ」と言っていたが、私には的確にパンチをガードする井岡に分がありそうな気がしていた。

後半、田中の攻勢がやや弱まる。ふとよそ見をしている間に決着はついていた。

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田中選手の故郷、岐阜県多治見市にある永保寺

それにしてもチャンピオン井岡のコメントは立派だった。

新型コロナで苦しむ人々への言葉。挑戦者田中を立てるコメント。とても激闘を終えてすぐとは思えない。

ただ、ちょっとした違和感がある。コメントに異議を挟むわけではないけど、「ボクサーってこんなに優等生なのだろうか」と。

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試合開始前に流れていた過去の日本人対決。薬師寺保栄辰吉丈一郎

これなどは試合前の舌戦もあって盛り上がった。

これから殴り合いをする2人が仲良しでは話にならない。「因縁」とか「確執」とかの言葉を並べて楽しむのである。

 

あるいは両者に接点がない場合も何かしらの対比を持ち出す。貧富、優等生と劣等生、天才と努力家。

今読んでいる佐瀬稔『狼は帰らず』の森田勝などは劣等感の塊のように描かれている。非生産的な登山で有名になりたいと願う矛盾の起こした人生の悲劇といったところか。森田勝の対比として登場するのはこれまた山に散った長谷川恒夫である。

筆者の描き方が極端なので、これをすべて真実と受け入れるのは危険だが、命を賭けに出す登山にのめり込む人間はいわゆる「常識人」ではない。

どこかで「外れ者」であり、だからこそ魅力がある。

 

格闘技や芸事というのはどこかアウトローの匂いが漂う。

日本芸能の代表とされる能も室町時代は田地を持たない河原者の芸だった。歌舞伎も然り、落語も然り。バレエもヨーロッパでは娼婦のものだった。

ところが昨今はいわゆる常識から外れることを極度に嫌う傾向があるように思われる。考えてみれば賞金をかけて殴り合うという行為はどう考えても「外れ者」の行いなのだが、スポーツというシトラスミントの香で覆い隠している。

井岡のインタビューが、あくまで優等生的で、立派で、物足りないように感じたのは私だけだろうか。