早朝、最寄駅近くのちっちゃな繫華街を横切ると、必ず徹夜明けの若者たちがいる。眉をひそめる人もあろうけど、私は単純にすごいなあと思う。自分に徹夜なんていう体力はない。
「まったく近ごろの若い者は」という愚痴は全世界、古今を問わない。古代ギリシアの文献にもあるそうだ。50年前も、100年前も、3000年前も言っていたに違いない。
この愚痴は年配者が「近ごろの若者」を理解できないということを示している。理解できないのは悪いことばかりではなく、すごいからでもある。
そんな「すごい」ことについて書いてみたい。
・電車でも中には歩きながらスマートフォンを見ている
私がスマホを見るのは、LINE、ニュース、天気や登山情報、本ブログの記述くらいか。
よくぞまあずっと見られるものだ。
私の母校の小学校には、二宮金次郎像が立っている。二宮金次郎だってスマホがあれば、ずっと何かを見ていたに違いないし、それを非難もされただろう。
寸暇を惜しんで夢中になるのは悪いことではない。
・根性がない
近ごろの若者でない私も根性はない。
日本人の言う根性とは何か。大抵が理不尽に耐える力である。理不尽ということは非合理的であり、無駄なのである。無駄なことをやらないのは賢いからであり、そのへん評価してもいいのではないかなどと思ったりする。
もっともこの愚痴は1000年前から変わらず言っていたのではないだろうか。
・野心がない
清貧を美徳としていた教育者が何を言う。
「舌切り雀」も「金の斧」もみんな貪欲を嫌うストーリーである。学校で教えられた通り育つと野心がなくなる。
それに暖衣飽食は年配者の方が著しい。
"Boys be ambitious!"の前に"Olds be ambitious!"である。
・車ばなれ、ビールばなれ
一つの価値観にしがみつく必要はない。
車は金がかかるし、都内では電車で十分。
一杯目はビールでなくてはならないというオキテに従うのもどうだろう。ビールは原価率が低くてお店にはありがたいが割高な飲み物だ。
最初からカシスオレンジでもいいではないか。
野田知佑さんはエッセイの中で、近ごろの大人はだらしがないと書いていた(もう30年以上前にだけど)。
だらしのない大人にならないためには、「近ごろの若い者は」という言葉を禁句にしなければならない。