クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

大貧民

台風の近づく最中、品川から渋谷を歩いた。特にどこかに寄る用事があるわけではなく、単に電車賃194円をケチるのと、下半身の運動不足解消のためだ。結局、案の定というか、渋谷の手前で台風の大雨に捕まってずぶ濡れになり、何をやっとるんじゃである。

その道中、恵比寿の駅前の交差点で信号待ちをしていると、駅の方から若者が二人歩いてきた。二人とも細身で長身、髪を白かシルバーに染めた今時の若者である。若者の一人が横断歩道の手前に立つと、サッと手を上げた。すると白いトヨタのタクシーが止まり、ドアを開ける。二人の若者はごく自然な素振りで初乗り410円のタクシーに乗り、どこかへ立ち去った。その間194円を惜しむ私はじっと信号が変わるのを待っていた。

 

お金とは何だろうと時々考える。かつて会社の先輩が「金はなぁ、使うためにあるんだぞ。あの世に持って行けないんだからな」と言っていた。そして、その先輩は四六時中、家族がいると金がかかって大変だと嘆いていた。

またある後輩はうっかり異動先で定期券を買うために支給された通勤手当で豪遊してしまった。「うっかり」というのは彼は通勤手当が前月の給与とともに振り込まれることを知らず、急に預金通帳の額が増えたことを無邪気に喜んでいたのだ。その後、彼はしばらく定期券を買えず、回数券で通勤し、昼飯も弁当を持参して凌いでいた。

 

金遣いが荒い二人を紹介したが、私はその真逆を行っている。恥を忍んで書くと、私の社会人1年目は貧乏学生のような生活をしていた。朝昼は食パンにピーナッツバターを付けて食べていた。晩ご飯はもちろん自炊。米を炊き、肉や野菜を適当に茹でて醤油をかけて食べていた。広島で過ごした1年あまりはエアコンすら買わなかった。こんな生活を送っていたが、収入は新入社員としては多くもなく、少なくもない。地方に赴任した同期はすぐにローンでスバルのレガシーを買っていた。まったく我が事ながら呆れてしまう。

では、どちらの方が豊かでどちらの方が貧しいだろう。同じような収入なら豪遊などしない私の方が貯金は多いだろう。しかし、件の先輩が言うように使わない金がいくらあってもないのと同じだ。生活は私の方がはるかに貧しい。

ただ一方で私は少々の出費が控えていても貯蓄がある分泰然としていられる。前の二人は子持ちだが、子どもの教育費を巡っては家庭内闘争が絶えないらしい。実に大変そうだが、時々やってしまう豪遊が元凶の一つとなっているうちはあまり同情もできない。

私は金を貯めるのが好きというより、金のことでやきもきしたくないから普段貧しい生活に甘んじているのだ。その意味ではお金は私にとってはただの精神安定剤であると言える。

 

まあ実際今でも食パンにピーナッツバターかというとそういうわけではない。外食はあまりしないが、刺身も焼肉も食べる。ただ、生活水準を簡単に上げるには抵抗がある。よく芸能人やスポーツ選手の転落人生とかを見ていると、概して生活水準を下げられない人が多い。全盛期に都内の高層マンションに住んでいた人が、収入が減ったからと言ってなかなか古く狭い、郊外のアパートに転居できるものではない。別にそんな高所得者でなくても、車を持っている人は手放せば我慢できないくらいの不便を感じるだろうし、一戸建てに慣れた人はマンションで隣と壁一枚という環境はストレスになるだろう。

身の丈に応じた生活をすれば良いと言われるが、一旦慣れた生活から急に耐乏生活に切り替えられるわけではない。特に年を取れば取るほど難しくなるだろう。

 

水滸伝』で悪政のはびこる宋に対して、梁山泊に集結した豪傑たち首領となったのは宋江という人物である。その宋江を評した記述に「信義に厚く、金離れが良い」という表現がある。読んだ当時、なぜ金離れが良いのが美徳かと思ったが、料理を食べきれないくらい振る舞う中国人らしい表現だし、金がある所に人物が集まるのは古今東西を問わない。金は持っていて、かつ使う人こそ豊かだと言える。

雨月物語』の「金福論」に織田配下の武将と金の精が対話する話が出ている。君子は金に拘泥すべからずという風潮があるが、金は大切にする人に集まるし、有意義に使えば便利なものだという話だったと思う。

そうなのだ。金は本来物々交換の代わりをする道具なのだ。ビットコインも元来送金のために作られた道具なのだが、道具というより、価値の上がる錬金術のような扱いになってしまっている。

「しかし!」と私は言いたい。道具で幸せにはならないのだ。イチローのバットを使ってもヒットを打てないように、お金はただの道具に過ぎない。

 

タクシーに若者が乗り込みのを目にして私は渋谷に向けて歩き出した。登山には何より下半身のトレーニングが必要だ。生活にお金がないと不便だが、登山で下半身の筋力がないのは同じく不便だ。しかし、普段歩き回らない人は不便を感じないかもしれない。

お金も使う額以上あっても活用しないし、結局はないのと同じだ。私はお金があっても一生貧しいままになるのかもしれない。