クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

お暑いのがお好き

久しぶりに涼しい日だ。いつものように電車に乗ると座席が空いていたので座って文庫本を開いた。

座るとやけに隣の男が太っていることに気づいた。推定100kg程度、私の1.5倍はあるだろう。列車が発車すると鼾をかいてもたれかかってきた。不潔な服装をしているわけではないが、朝から大汗をかいているのか酸っぱい臭いまでする。「こんなに大きな身体で、一人前の座席ではさぞかし辛いでしょう。どうぞこちらに寄りかかってください」などと言うわけがないではないか!文庫本を持つ手で押し返すと少し撤退するが、すぐに鼾とともに肉布団を押し付けてきて暑苦しいことこの上ない。

電車が遅れているらしく、駅で時々停まる。文句があれば座席から立てばいいのだが、じっと立つのも疲れそうで嫌だ。文庫本の中では内田百閒先生が寒空の下で借金取りとの交渉をしているのだが、暑苦しくて全然頭に入って来なかった。

 

今年は暑い。ここのところ毎年のように言っているような気がするがやはり暑い。気温40℃とか聞くと、ここはサハラかデスバレーか、おかしいではないかと言いたくなる。生活保護者にとってエアコンは贅沢かという議論があったが、これくらい暑いと生命にかかわる。きっとエアコンを買えなかったため、熱中症になりましたとなれば、非人道的だということになるだろう。まあ暑いだけで「健康で文化的な生活」を享受できないのだから仕方がない。

南国の人は明るいような気がする。私の知る中でも(大して多くはないが)フィリピン人は明るいし、マレーシアで仕事をしているおじさん(これは日本人)は高田純次のような明るい人だった。暑ければ凍死はしないし、食物も暑い地域の方が豊富だ。人間の不安の大半は将来食べていけるかに対する不安だが、とりあえず何とかなるだろうという楽観的な観測が成立するのである。

欧米の宣教師とフィジーの原住民との逸話が面白い。

原住民「どうして働かなくてならないの?」

宣教師「頑張って働けば将来遊んで暮らせるからだよ」

原住民「おじいさんもお父さんも遊んで暮らしていたし、今だって遊んで暮らしているよ」

宣教師「・・・」

これは野田知佑さんが好んでする話だが、このような南国人的発想の中では『アリとキリギリス』も『マッチ売りの少女』も成立しない。南国のマッチ売りの少女は売れないとわかったらヤシの木陰で昼寝を始めるだろうし、のどが渇けば木に登って実を取り渇きを癒すに違いない。

 

これだけ暑いと日光で目玉焼きでもできないかと思うのは私だけではないだろう。夏目漱石吾輩は猫である』にも美学者迷亭が細君に瓦にバターを落として卵を焼いた話をしている。今ならGoProで定点観測してYouTubeに投稿するところだ。暑くて熱中症になる前に暑さを忘れるくらいくだらないことに熱中するのも一興かもしれない。

とりあえず、日本が常夏になったら、暑苦しい列車通勤をやめて、川で魚獲りでもして暮らしたい。