「この前〇〇君と飲んだんだけどね。軽いね、彼。スナック菓子みたいに軽い」
同期入社の奴と昼食を食べていた時に出た何気ない話題だった。この話にウケつつも、「スナック菓子」という譬えは秀逸だなとやけに感心してしまった。
その〇〇君という男は、特に女を追い回すわけでもなく、チャラチャラと着飾るわけでもなく、メガネをかけた少し神経質なルックスで、初対面ではとても「軽い男」とは思えない。しかし、会話していると見た目の印象は消えてくる。相手の話を聞いているようで聞いていない。
「そうですね!そうですね!」
と愛想よく相槌を打つのは、理解していることの証ではなく、ほとんど生体反応に近いのだ。
見た目は嵩があり、中身はスカスカしたスナック菓子はまさに譬えの妙を感じる言葉だった。
ユーモアに満ちた文学作品に譬えは必須要素となる。
「しかし
何を言っているのかわかりにくい。わかりにくいが何となくわかるし、何となくクスクスとなる。インスピレーションは逆上の変名だとしている一方で、全く似て非なるものだとも言っているものと私は解釈している。そして作者の漱石先生も逆上していると。
ただ、譬えに種明かしは不要だ。種は読者や聞き手が自分で発見するから楽しいのであって、演者がそれを奪ってしまうと価値を半減させてしまう。
山友達とのLINEのやり取り。
「(写真の人の中には)ただのオッサンに見えるけどスーパー山屋がおる」
「どのくらいスーパー?」
「どのくらいスーパーか考えた結果...
山野井さんのような神クライマーが東京スカイツリーだとすると、
神戸のポートタワーくらい。
私は電柱くらいかな」
これまた秀逸な譬えをする友人がいる。