自粛生活というより仕事が忙しいので、合間を縫っての映画特集が続いている。
そんなに映画が好きかと言えばそうでもない。高校時代までは金がないのが大きかったし、洋画の吹き替えというのが苦手だった。特にアメリカ映画を日本語に変えると、「こんな会話、ホンマにするんかいな」というくらい嘘っぽさが先だって、映画を味わうどころではなくなってしまう。
最近になって違和感なく見れるようになってきたのは、英語音声と日本語字幕の組合せになれたからだ。簡単な英語なら台詞を聞き、複雑で早口なら字幕を見ている。
淀川長治が十数度見たという「駅馬車」を見た。私は2度目である。
舞台はアメリカの西部開拓時代。
砂漠地帯に白人移住者が増えるとともにネイティブアメリカンたちとの対立は深まっていた。特にアパッチ族は強烈に白人を敵視しており、砂漠地帯を無防備に移動することは危険な行為とされていた。
映画はそんな街から街へ駅馬車で移動する者たちの物語である。医者、実業家、軍人の妻、酒造家、ギャンブラー。全員何か問題を抱えている。そこに刑務所を脱獄したお尋ね者、ジョン・ウェイン演じるリンゴが加わる。馬車に揺られ、小さな街から街へ移動するが、ついにアパッチ族に見つかって...という物語だ。
舞台の主はタイトル通り駅馬車の中で、狭い車内で人物たちは互いに周りを窺いながらも無関心を装っている。一方で、アパッチ族を恐れるのは馬車の馭者ばかりで、乗客は自らの危険に対してはどこか無関心な感じがする。ストーリーの途中で、出産する女性もどこか自分に対して無関心だし、医者はアル中、実業家はなぜか安全度外視で進むことを主張する。主人公リンゴは復讐を遂げることのみ。
そんな登場人物たちが駅馬車に乗り合わせ、アパッチ族の襲撃を受けるも、リンゴやギャンブラーたちの活躍もあり、最後は騎兵隊に救われ、何とか街に到着する。
その前の週に見た「現金には手を出すな」が友人とのしがらみに翻弄されるギャングを描いたのに対して、「駅馬車」はたまたま乗り合わせた他人同士の物語である。ジャン・ギャバンの渋いフランス語とはきはきとしたアメリカ英語の違いかもしれないが、他人への関心の方が心理的に負担が少ない気がする。
私たちは、ごく親しい人間関係よりも赤の他人に関心を抱くことが往々にしてある。親しい人との関係は維持したい、しかし時に関係が煩わしくなったり、無関心になりたくなったりするものだ。
マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心」と言ったそうだが、一度人間関係を無にした中でこそ、小さな愛が種火のように生まれるのかもしれない。