クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

私たちは時間とお金を交換しながら生きている

先月は谷川岳、今月は妙義山と群馬の山によく行っている。帰りは新幹線を使うか在来線で帰るか微妙に迷うところだ。谷川岳の場合、バスで上毛高原駅まで行き、新幹線を使うと早い。ただ、先日は土合駅から鈍行で帰ってしまった。

中央本線では八ヶ岳のある茅野から東京に戻る時に特急に乗るか鈍行で帰るかも毎度迷いどころである。今のところ、茅野から松本は特急、韮崎や甲府は鈍行という区分になっている。

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特急券は時間とお金の交換である。松本から新宿までの2500円あまりの特急料金で鈍行との差の2時間を買っているのである。

 

コンビニというのも商品でなく時間を売る店と言える。

飲み物も文房具も量販店より高い。ただ、店に入ってから買うまでが早いし、量販店より簡単に見つかる。時間代が商品に上乗せされていると考えればよい。

そんなことを書きつつ私はあまりコンビニを使わない。必要なら量販店に行く。時間を惜しまないのではなく、走って行けば時間もお金も節約になってトレーニングになるので一挙三徳になるからだ。

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先日、映画「ショーシャンクの空に」を見たが、刑務所というのは肉体的な懲罰を与える施設ではない。時間を奪う施設である。

終身刑を言い渡された登場人物のレッドは、40年後に「更生した」として仮釈放されるわけだが、年数が人を更生するとは思えない。映画の中では「刑務所は廃人を作る」とあったとおり、時間を奪って悪いことのできない人間に変えてしまっただけだ。

そう考えると、会社というのも(あるいは官公庁でもいいのだが)、従業員にとっては時間を奪うものであり、対価としてお金を払っている。残業代を払わないのがなぜいけないかと言えば、無対価で時間を奪っているからであり、決してしみったれていることを非難するからではない。

人間にとって有限である時間を使うのは人生そのものを切り売りしているわけだから、無対価の労働は刑罰と同じことなのだ。

 

私はお金に対する価値観についてわりとうるさい。

消耗品は一番安いものを選ぶし、米も新米なら安い銘柄を選ぶ。コンビニや喫茶店は滅多に行かないし、下手をすれば公園で水を飲んでのどを潤している。

そんな妙な価値観を築いたのも、どうやら都会では時間とお金を絶えず交換しながら生活しているということに気づいたからだと思う。

かかる時間が同じなら安い方がいい。高いお金をかけるとその分余計に時間をかけて稼ぐ必要が出てくる。それは人生をすり潰すことにつながる。

時間をかけないと丁寧な仕事をやったことにならないという考え方も嫌いだ。すべては時間と成果のバランスである。時間はすなわちお金だから、コストをかけて成果を上げても意味はない。

基本的に気が短いので、速く歩きたいし、信号待ちもしたくない。

「時は金なり」、「金は時なり」なのだ。

 

それではなぜ時間と金をかけて、なおかつ危険を冒して山に行くかって?

それはうまく説明できない。

説明できないことをやるのが人生なのであり、人生は説明できないから面白いのだ。