クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

三重県は中部か近畿か問題について

赤城山からの帰り、北関東になかなか名所、名物がないという話で盛り上がった。そこで妙なところから引き合いに出されたのが三重県である。

三重県は中部か、近畿か?」

という議論になった。北関東の話から突然俎上に乗った三重県であるが、ちょっと面白いので書いてみたい。

 

三重県はご存じのとおり、西を奈良県、北を滋賀県、東を愛知県、南を和歌山県に接し、志摩半島は太平洋にせり出している。

地理としては完全に紀伊半島の中なので、近畿として扱いたいところだ。

それにもかかわらず、文化圏としては名古屋を代表とする中部圏に入れることが多いので話をややこしくしている。県庁所在地の津やオートバイで有名な鈴鹿工業都市四日市などは名古屋からの方が京都・大阪・奈良の畿内より近いので、中部文化の影響を強く受けている。こと平野部で考えると名古屋からつながっていると考えた方がいい。

 

これに対して三重県の公式見解がホームページに出ている。県が出しているところがすごい。

www.pref.mie.lg.jp

結論は「中部でも近畿でも正解」となっている。なんじゃそら。

教科書でも決まっていないというから驚きで、こうなると三重県内でも学校によって中部派と近畿派に分かれる可能性がある。行政区画まで管轄によって違うというのだから、我々が手に負える問題ではないようだ。

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三重県の秘境・大杉谷

 

そもそも歴史的に三重県は、伊勢・志摩・紀伊・伊賀の集合体である。

伊勢は伊勢神宮を代表とするなら畿内文化圏。というか天照大神を擁する以上は畿内が伊勢文化圏であるといってもいい。

群雄割拠の戦国時代にあっては、名門北畠氏の統治下にあり、これも京都貴族の出自。文化が畿内に集中していた時代に襖一枚隔てた伊勢は畿内文化圏に入っていた言っていいだろう。

ところがこの状況が変わるのは、織田信長の侵攻である。北畠家は滅亡、信長の息子信孝が領主となる。信長は同時に長島の一向一揆、伊賀の忍者城も平定し、近畿の隠し部屋のようになっていた三重の旧勢力を次々に潰してしまう。

信長は三重県の独立勢力をブルドーザーのように均してしまった。勝手な見方であるが、地場の旧勢力が一掃されたことで中部圏の文化が流れ込みやすくなったのではないかと思う。

江戸時代は尾張徳川家、伊勢は藤堂高虎を初代とする藤堂家で、徳川家と懇ろな関係にある。ここで文化圏の逆転、名古屋文化の流入が生まれたのではないだろうか(完全な推測です)。

実際、三重県民によると言葉は関西弁に近く、テレビ局は中部圏なんだそうだ。

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御在所岳の奇跡の石

 

さて、山屋的には近畿の秘境と呼ばれる大杉谷、クライミングのメッカとされる御在所岳があって面白いエリアとなっている。

紀伊半島は南部が山地を占めていて、大台ヶ原やその麓にある三重県尾鷲市は日本屈指の豪雨地域。大杉谷は大台ヶ原の直下にあり、雨が降れば各所に滝の現れる渓谷だ。

もともと、私鉄が観光地として売り出そうとしたものの、吊り橋落下事故やら、観光地としての整備が難しくなり、今は登山者のみ立ち入ることができる。とは言っても一般登山道なので、滝を愛でながら大台ヶ原まで抜ける道は最高だ。

御在所岳は1200mくらいながら関西クライマーのメッカ。夏はフリークライミング、冬はアイスクライミングまでできるというから幅が広い。年中楽しめる山となっている。クライミングだけでなくハイキングもできるが、ロープウェイがあるのが蛇足な気がする。

 

地域分けは中途半端だけど、自然や登山エリアとしては中途半端ではない。

これが三重県である。