クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

人生は不公平?不平等?

先日、相方の勤める学校の生徒が作ったというプレゼンアニメを見た。

テーマは「北極」。北極の氷が解けて大変だという話ではなく、北極の氷が減ったことで生まれる権益の獲得に各国が乗り出しているという内容だ。これがすごいクオリティで、北極海周辺の氷が解けることで生まれる新航路と各国の戦略とか、一体何で調べたん?と聞きたくなった。

作った生徒は中学二年生。単に知識を集めただけで作れないから、凄まじい理解力である。

その学校には他にも高校数学を解く小学生とかいて才能に恵まれた子が多いらしい。

 

しかし、相方が勤務する「学校」は学校教育法の規定する学校ではなく、いわゆるフリースクールである。したがって、ここを卒業しても卒業資格は得られない。

 小学校くらいなら卒業資格を何とか取ることはできるようだが、高校は他に通わないと最終学歴は「中卒」となってしまう。

親としては複雑なところだろう。

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日本は良くも悪くも平等な国である。

ゴールテープを切るのはバラバラでも少なくともスタートは号砲が鳴って同時だと信じている。入試も就職も、住んでいるエリアだけでも都心に近い方が有利だし、面接試験では容姿も絶対関係している。縁故採用だってまだまだ存在している。

ただ、表面的には公平に扱おうとしているのが日本だ。テレビ局のアナウンサーの募集要項に「容姿端麗」とは書いていないけど、容姿という要素が必須であることを誰もが知っている。

実力主義と平等主義は相反するものなのに、なぜか「学力は平等な実力」、「容姿は不平等な実力」というフィルターがかかっているのだ。

では、「天才」と言われる子どもたちはどうかというと、「生まれつきの天才は不平等な実力」に区分されているように思える。

 

最近は「ギフテッド」という言葉が流行し、徐々に才能のある子どもを支援する学校もできていると聞く。

ギフテッドの子はその才能ゆえ、周囲と協調が取りにくい。ある意味で、突出した才能のせいで、日本人の重視する協調性という力が弱まったと言える。

その意味では人の才能はトータルではわりと平等にできているのかもしれない。

ただ、平等の建前で才能を殺すことにならないようにすることが社会の務めだと思う。

 

J.K.ケネディの演説の一節。

"There is always inequity in life. Some men are killed in a war, and some men are wounded, and some men never leave the country, and some men are stationed in the Antarctic, and some are stationed in San Francisco. It’s very hard in military or in personal life to assure complete equality. Life is unfair."

(人が生きていく中では常に不平等が生じる。戦争で殺される者、傷つく者。故国から離れなくてよい者、南極勤務の者、サンフランシスコ勤務の者。戦争でも個人の生活でも完全なる公平は保証できない。人は生きる上で不公平なのだ。)