久しぶりの衝撃作だったので長々と書いてしまっている。
登山を描く映画はいくつか見たが、とどのつまりは「なんで登るねん」というのがテーマとなる。
死ぬかもしれない行為するのに必要な理由を見出すのは難しい。映画『アルマゲドン』なんかは非常にわかりやすい。全人類のために危険を冒す。異議を唱える人はない。『海猿』なら職務的な使命。『レオン』なら愛。『駅馬車』ならプライド。
より重たいテーマの方が感動しやすい。見る側の想像の領域を超えないと陳腐なものとなってしまう。金とかケンカとかツマラン理由に命を懸けてもらっては困るのだ。
では戻って「なんで登るねん」と言われるとこれまた返事に窮する。私の場合、「まっ、大丈夫だろう」と思うところにしか行っていない。
現代のクライマーのモチベーションは表現欲というのが多い気がする。平出和也、中島健朗という2人のクライマーはともに山岳カメラマンという肩書を持っている。服部文祥、角幡唯介は文字表現。亡くなった栗城史多なんかも登山を使った表現をする芸人だったと言えるかもしれない。
表現欲の全くないクライマーは少ない。登れば自慢をしたくなるのが普通だし、心に押しとどめよというのが土台無理な話。おまけに先鋭的な登山には命が懸かるし、金もかかる。
誰知れず登って、人知れず下りる。表現を伴わない登山など果たしてあるのだろうか。
それを実際にやっていたクライマーが本作の主人公マークだった。
そこに表現世界へ無理に引き込もうとするドキュメンタリー制作班。マークは突然失踪してしまい、ある時は北極圏のバフィン島に、ある時は地元カナダに戻ったりし、先鋭的なクライミングを続ける。
映像として一番「おいしい」ところをあえて見せないのだ。
結局、カナディアンロッキーのMt.ロブソンの再登(2回目ならとOKした)とパタゴニアのトーレ・エガーの冬季登攀が映画のハイライトとなるわけだが、撮影隊に肝心のところを見せないのがドキュメンタリーとして面白い部分となっている。
では何が主人公のマーク・アンドレ・ルクレールの魅力かというと、純粋に登っていることだと言えるだろう。
記録も表現も関係なく純粋に登るというのは案外難しい。記録は先人たちとの対比から生まれる。目標を達成できたら言いたくなるし、証拠も残しておきたい。ただ、それはクライミングにおいて表現という不純物を混ぜることにも繋がる。一度表現者となってしまえば、表現者としての登山をしてしまう。
表現を廃して登ることができる。それは純粋に登ることが好きで好きでたまらない人にしかできない。そして命のかかるクライミングにおいてそれができるのは純粋に生きることでしかできない。
そのことをマークは示しているように思える。
これまた随分と長々書いてしまった。
最後にこの映画は「お前は純粋に生きているか?」と問いかける内容だったということで結びにしたい。