今から5、6年くらい前、年間24回登山に行っていた。つまり月2回ということになるのだが、週末登山者としては行ける時を全て費やしたことになる。
登山は天気が悪ければ行けないし、休日出勤もある。山に行かない日はボルダリングジムへ行っていた。
当然頭の中の半分くらいは次どこに行こうかということばかり。人生これでいいのかと思わなくもなかったが、いい職に就き、いい収入を得て豊かに暮らすというような目標はどうでもよくなり、今登りたい山に登るということに情熱を燃やしていた。
徐々に価値観が壊れていき、自分の考えが一般的でないことに快感すら覚えるようになっていく。実際には山登りをしているだけなのに、「精神的なアウトロー」を気取るようになる。
そんな壊れた価値観について角幡唯介さんが書いている。
クライマー ならクライミングより価値がある世界を認めないだろう。クライマーにとっては村上春樹や宇多田ヒカルでさえ、さほどの人物とは思われない。なぜなら彼らは壁を登れないからだ。
角幡唯介『探検家の日々本本』
角幡さんと言えば、今や数々の賞を受賞し、本を何冊も出す売れっ子。その抜粋がちょっとしたところで申し訳ないところなのだが、私は軽いタッチで書いているエッセイなどが好きだ。
さて、近代の教育とは何かと言えば、価値観の固定化だと言える。一箇所に集め、同じ価値観を共有する。日本人として、家族として、人として何をすべきか、どう生きるべきか。
しかし、単一の価値観は同時に重荷になる。
その理想像から遠ざかる人間が必ず存在する。そしてその価値観からズレることに快感を覚えるようになるのが登山者なのだろう。危ないこと、やってはいけないということをあえてする。一般的な価値観からあえて逸れる。
ただ、現代に暮らすわれわれには時としてそれが必要なのだろう。仕事、家庭、学校の「あるべき姿」に押しつぶされそうになった時、登山は新しい価値観を与え、登山者を救ってくれるのだ。