アイスクライミングのフリーソロが凄いということだけで1記事となってしまった。
今回はもっと映画の深部に触れてみよう。
主人公のマーク・アンドレ・ルクレールは幼少期にAEHDの診断を受け、小学生から母に学ぶことになる。そこで自然と触れ合い、クライミングを始める。
高校には進学するものの、学校には馴染めないまま卒業。一時パーティーにハマるということもあったものの、パートナー、ブレット・ハリントンと出会うことで再びクライマーとして蘇る。以降、定職に就くことなく、車やテントで暮らす「クライミング・バム」となる。
ここで不思議なのはマークが全くと言っていいほど発信することに興味がないことだ。
まったく飄々としている。クライミングをしながら「楽しい」と言葉にするものの、それを山岳雑誌に発表するでもSNSに載せるでもない。ごく一部の知り合いが「スゲー!」と言われるくらい。
アイスクライミングのフリーソロをするくらいだから、とんでもないルートをとんでもないスピードで登っているのに、誰にも公表していない。それゆえ知る人ぞ知る、知らない人は知らない「雪男伝説」のようになっていた。
ドキュメンタリー映画の冒頭も当人を見つけ出すことから始まっている。
登山において単独で困難な登攀を実施した場合、基本的に本人の自己申告を信じる。写真があれば「ある程度」は証明されるが、なくてもクライマーの証言を尊重する。
ただ、歴史的に「疑惑の登攀」があるのも事実だ。
有名なところでスロベニアのクライマー、トモ・チェセンのローツェ南壁とジャヌー北壁。作中に登場するラインホルト・メスナーもナンガパルバット登頂に疑惑の目が向けられたことがある。
登山という行為は冒険である。写真を撮ったりといった証拠を残すのは難しいこともある。しかし、エベレストが初登頂され、どの山でも上ることができることがわかった時、ヨーロッパではどのルートを、どの方法で登るかに注目が集まる。
そこで始まったのがより困難なルートを軽量、速攻で登るかというアルパインスタイルだ。ヨーロッパ・アルプスで実践されていた速攻登山をヒマラヤをはじめとした巨大な山で行う試みであり、それを最初に実現したのがラインホルト・メスナーだった。
アルパインスタイルが生み出した副産物は登山のスタイルだけではない。
より困難な、より軽やかな登山というものにはある種の表現が必要となる。高い山なら標高が示してくれるが、難度は登った人にしかわからないからだ。表現しない登山に価値を付けるのは難しい。
そういう意味でアルピニストには表現欲がセットとなるというのが私の認識だ。
その表現欲のないクライマー。それが『アルピニスト』の主人公マーク・アンドレ・ルクレールであり、ゆえに他にない魅力のある人物としてこのドキュメンタリー映画が成立したと言える。(つづく)