クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

神経衰弱と詰め込み学習と寿限無寿限無

先週末、実家に帰った際に姪と会った。

御年7歳。親戚で集まると、いつもと違う人と遊べるのを楽しみにしている。今はトランプに夢中らしい。

集まるや、大人たちの意向を無視して神経衰弱をやろうということになった。

私は記憶力にそこそこ自信がある。

過去は江戸時代の元号を暗記していたし、戦後史は1年ごとに出来事を記憶していた。しかし、7歳相手の神経衰弱では「ひょっとして自分はアホなのか」というくらい記憶できなかった。

母親である妹は「私は、まだ手加減してやってるよ」と言うが、こちらは本気でやってもまるでダメ。相方も私と同レベルで、夫婦揃って頭悪いということになってしまった。

どうやら私は記憶が悪いらしい。神経衰弱で発覚してしまった。

では、なぜ記憶に自信が持てたか。それは断片的な出来事を物語と映像して記憶していたからだと思う。

神経衰弱をした翌日、興福寺をとおりかかると、昔見た漫画『日本の歴史』で興福寺の僧兵が神輿を担いで強訴していたり、フェノロサ岡倉天心が日本の美を説いたりといった絵が脈絡なく出て来た。

そして目の前の光景が有機体として動き始めたことで次々と記憶が蘇ってきた。

詰め込みは思考力を奪う「悪」とされ、「ゆとり教育」への転換が行われた。われわれは記憶がないと思考できない。そこでまた学習指導要領に揺れ戻しが起きている。

しかし、本当に問題なのはただの暗記はつまらないことだろう。

私が神経衰弱で覚えられないのは、脈絡のないカードの配置に興味を持てないからだ。それに対して姪は自分の記憶通りにカードが現れることを楽しみ、大人に勝てることを真に喜んでいる。その差は勝負の結果に出ている。

興味があれば、雲の形だろうが『水滸伝』の主人公だろうが寿限無寿限無だろうが簡単に覚えられる。詰め込みの賛否より好奇心をいかに育てるか。これが教育の肝だと思うのだが、どうだろうか?