クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

オタクになる資格

3年ぶりに弟が帰国した。年も取って落ち着いてきたのかと思いきや「オタク」になっていた。日本滞在中は西へ東へ、イベント三昧の日々を送るらしい。

3年を経て再び子どもに還ったように思える。

 

今から25年か30年ほど前から「オタク」が市民権を得てきたと記憶している。

通っていた学校はオタクの坩堝で、修学旅行の自由時間にわざわざアニメイトに行ったりする連中がいたし、体育祭のクラス対抗の巨大パネルはアニメが定番。

アイドルオタクは思春期の気恥ずかしさであまり目立ってなかったが、一定数生息していたようだ。

アニメ・声優・アイドル・ゲームなど、さまざまなオタクがいて実に賑やかだった。その後、オタクは文化として認知されるようになったが、当時は敬遠する人も少なくなかった。

その意味で私自身はオタクに対して理解がある方だ。周囲がオタクだらけなのだから、熱中できるものがあるのは羨ましくもあった。

しかし、自分自身はオタクにならなかった。これはなぜだろう?

ゲームにハマる理由はわかる。自分が主人公になれる場所だからだ。日々、平凡な人間が平凡に過ごしていると自分は一市民として暮らすことになる。そして、ごく一部のスポーツ選手やアイドルなどのヒーロー・ヒロインを応援する。

しかし、これはRPGに登場する「村人1」と同じだ。大多数は勇者のために存在するだけに過ぎない。

ゲームは自分が人生の主人公になるためのツールである。

一方で、アニメ・アイドルの場合、主人公を他者に任せたまま、オタクは応援側に徹したまま夢中になる。同じオタクでもゲームとは立ち位置が違う。

ただ、それだけではない。岡田斗司夫オタク学入門』などを読んでいると、真のオタクは自分なりの掘り下げを行うらしい。アニメならその背景や解釈を加えて楽しむ。実体のあるアイドルの掘り下げ方はよくわからないが、何かしらマニアックな楽しみ方があるのだろう。

高校を卒業してから、さる友人が「自転車で四国八十八か所を行く」と宣言して3週間で完遂した。さらに翌年「俺はキリマンジャロに登って、マサイ族と会って来る」と言ってアフリカに飛んで行った。さらにさらに翌年は「今度は南アメリカだ」と言って今度は地球の反対側に飛んだ。

それを見た私は自分が主人公になるには家を出ればいいと思った。ゲームもアニメも創造主がいて、そのフィールドで遊んでいるに過ぎない。自然の中では自分自身が主人公になれる。

私は他人の世界を掘り下げることではなく、自分自身を掘り下げることを選んだ。登山や自転車、マラソンはフィールドで自分自身の能力を掘り下げる行為だ。興味が自分自身に移った私はオタクになることはなかった。

その資格を自ら放棄したのだ。

 

今、弟はオタクになっている。ただ、彼曰く日本にいる間の期間限定オタクらしい。

彼は来年再び海外に行く。そこからは彼自身が主人公、そして興味は自身に戻ることになる。