クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

三枚のお札

登山など少し遠出する時、みんなどれくらいの金額を持っていくのだろう。私の場合だいたい3万円くらいだ。帰りにタクシーや新幹線を使っても3万円あれば足りる。それ以上持つのは何となく落ち着かない。登山では濡れる可能性もあるし、歩行中はザックにしまうのでザックごと崖から落とすという危険性もなくはない。「三枚のおフダ」ならぬ「三枚のおサツ」くらいが無難だ。

 

ヤクザ映画ではトランクにお札がぎっちりというシーンがしばしば出てくるが、ああいうシーンは本当にあるのだろうか。ハリウッド映画では何十年も前から振込方式になっている気がする。ジョン・グリシャムのサスペンス小説"The Firm"(邦題『法律事務所』)でも金は現金ではなく世界各地に振込で送金していた。現金をトランクに入れて走り回るのはどうも現実的ではない。前掲の小説ではヘリで現金を運んでいたけど。

では高額紙幣があればそれで良しかというと、映画的には見栄えがしない。アメリカではかつで10000ドルとかいう高額紙幣が発行されたようだが、これを100枚渡しただけの取引はなんだか緊張感に欠ける。やっぱりお札はトランクにぎっちり、テーブルの上にドーンとなくてはならない。

逆にレイモンド・チャンドラーの"The Long Good-bye"では主人公フィリップ・マーロウに親友テリー・レノックスは5000ドルを渡すのだが、これは一般に流通していない5000ドルだからいいのであって、100ドル札で50枚渡されるといっぺんに俗っぽいシーンになってしまう。また、このシーンは振込みでもいけない。通帳の数字に印字されていても数字は何も語りかけない。やはり実体のある、それでいてほとんど流通していない5000ドル札だからこそ、テリーの心中を伝えることができるのだ。

 

本屋の新書コーナーで一時人気だった「ビットコイン」本がここのところ下火になっている。私も興味本位でパラパラ読んだが、世間ではどうも仮想通貨について誤解があるような気がする。仮想通貨は本来、国家間の送金コストを減らすための送金媒体である。通常、ドル建てで取引するためには円をドルに換える必要がある。ドルを円で買うわけだが、買う時と売る時でレートが異なっている。買う時の方が高く、売る時の方が安くなっており、利ザヤは銀行などの金融機関に入る。輸出入取引を行う場合、コストがばかにならないため、国境をまたぐ取引コストを減らすために仮想通貨が生まれたそうだ。しかしながら、国家が保証している通貨と異なって、仮想通貨はその価値には一切の保証がなく、乱高下する危険性がある。しかも通貨のように還元可能な金属製のコインやお札のような実体がないのでデータ改竄の可能性もある。これらの事象が過度に報道されるにつれて、仮想通貨はあたかも危険な投機対象、突然消滅してしまうかもしれない危ういお金というイメージを植え付けたが、元々はただの価値を交換する道具である。


しかし、これは決して仮想通貨にだけではなく、一般の通貨にも言える。本来、通貨自体が物々交換を簡便にするために発明されたものであり、いわば商品引換券のようなものだ。時代が下るにつれて、とにかく金を集めるのが好きな人間、金を使うのが好きな人間が現れて、金と物の価値が転倒するようになっただけだ。

内田百閒は「金は物質ではなく現象だ」と嘯いた。お金は物と同等の価値を持つようになり一時は「物質」となったわけだが、キャッシュレス化の進む現代はお金を「現象」に変え、使う時にしか実感を伴わないものにした。英語で'live hand to mouth'(その日暮らし)という言葉があるが、お金が姿を消した社会はその表現に近いながら、依然としてお金が生命維持装置のようにわれわれの生活を取り仕切っている。

お金があれば幸せかという議論は何世紀にも渡って繰り返されるが、お金が不足すると不便であることには変わりなく、人生という有限の時間を使ってお金を稼ぎ、生きながらえているのが現代人の正体だ。

 

登山中は必要以上にお金を持たないし、山小屋くらいでしか使わない。3万円持って行っても鈍行なら1万円も使わない。そして美しい日の出を見て少しだけ幸せな気分になる。お金が足りないと困るが、使わなくても幸せになれる。

「三枚のお札」の小僧は一枚目のお札を自分の身代わりに、二枚目を大水に、三枚目を火に変え、三枚とも使って命からがら山姥から逃げて寺に戻った。

私は山を下りる時、「三枚のお札」を使ってまで帰る必要があるのだろうかと考えてしまう。