クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

情報難民と読書

来年の手帳をめくっていたら「体育の日」がなくなっていることに気づいた。

今更のように思われるかもしれないが、ここのところテレビが家にないのは相変わらずのことながら、ラジオも聞かないので、世間というものからずいぶん遠ざかっている。新聞も読まず、まさに都内の仙人だ。

 

かつては新聞をうるさく読めと言われた。就活の時は日経が社会人の必須要件のように言われ、面白くもないのに、大学の図書館で全ページをめくりもしたのに、本当の社会人になるとより読まないのだ。まさに社会人失格である。

それでは実生活で何か不便があるかといえば、あまりない。そもそも年を経るごとに他人との共通の話題が減るように思える。せいぜい災害や何かの凶悪事件などのネガティブな情報。または有名人のゴシップくらいで、国民的熱狂を生むイベントもあまりない。

先日会社に来た某銀行のセールスにこちらの上司が少し遅れる旨を伝えるや、「それでは雑談でもしていましょうか」と前置きをした上で、「最近めっきり寒くなりましたねぇ」と話し始めて驚いた。何に驚くといって、こんなにもわかりやすい雑談はないもんだ。雑談にしても雑過ぎりゃせんか、と腹の中で考えたものの、相手の興味もわからない中での他人同士の会話なんかそんなものかもしれない。

 

十数年前に盛んに言われた言葉はITつまりinformation technology、情報技術だ。今このブログを打っているiPhoneもその賜物であり、「賜物」という言葉を辞書なしで入力できるのもその恩恵である。

情報がいくらでも手に入るようになったから情報を頭にストックしなくても良くなった。否定的に考える人もいるが、私は肯定派だ。「憂鬱」という言葉を書くたびに辞書を引きたくない。英語の綴りなんてtechnology のhは確実に抜けるだろう。

十数年前、自動車教習所の二十代後半くらいの講師が

「人間、便利になると衰えていくところがあると思うのです。最近は携帯電話が出てきて電話番号を覚えることもなくなりました」

などと年に似合わないことをのたもうていた。講師よりさらに若かった私は「電話番号なんて覚える意味があるのか!?」と可愛げもなく思っていたわけで、今も自分の携帯電話と実家の番号、会社の代表番号くらいしか諳んじることができない。私の少ない頭脳容量では電話番号なんて入る余地はない。

 

スマートフォンの普及とともに新聞を読む人が減り、テレビも見ない人が増えた。つまり地デジ化前からテレビも見ていない私などはバカにされつつも最先端だったのだ。

テレビを見なくなった理由の一つに時間がないというのがある。仕事が忙しくなり、帰宅してもどうせ寝るだけならテレビは睡眠不足の温床になるだけだ。

ただ、それだけではない。いつしかむやみに情報を入れすぎると、消化不良になって気持ち悪くなるようになり、情報そのものを遠ざけるようになっていた。私には情報に対して「消化」という行為が必要だ。情報化社会で、情報をいつでも受けられる分、選別しないで情報を浴びていると、不感症になってしまい、考えることを放棄してしまう。「考える」ことがわりと好きな私に多すぎる情報は思考停止の元凶になりかねず、無意識に避けるようになっている。

最近は興味のある本ばかり読んでいる。本の良いところは情報過多にならないこと。自分でお腹いっぱいのところでやめることができることだ。それと、途中で考えたいときに考えられる。テレビのようにぼーっとしていると見逃すということがない。

新聞はどうかと言えば、紙面を情報で埋め尽くすためにやはり情報過多なのと、いかにも真実っぽくて考える余地が少ないように思える。なにより社名が先に出ていて書き手が見えづらいので、記者の顔を思い浮かべることがないのが嫌だ。

 

とにかく常にぼーっとしている私はぼーっと何かに思いを巡らせている。自分の頭で考えることが好きなのだ。

それでは、外に出て紅葉が赤くなるワケでも自分の頭で考えてみようか。

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