クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

世界を退屈にした発明品

在宅勤務である。テレワークである。

昨年、「オリンピックに向けてテレワークの準備を!」ということで東京都の講演を聞きに行ったのに、たちまちコロナ対策のために変わってしまった。まあ無駄にならなかったということか。

とにかく通勤がなくて便利だ。通勤時間を使って軽いランニングや買い物もできる。

便利なのはいいことで、世の中は便利のために進んできたと言っても良い。

しかし、時折「こんなもんあるからつまらんのだ」とグチりたくなることもある。

 

①つながる携帯電話

電話はつながるから電話である。どこでも通じて便利だろう。便利を享受しておって何を言う。

それはわかっているのだが、時には行方不明になりたくなることもある。

 

かつては、

北アルプスで行方不明となっていた○○さんが1週間ぶりに発見されました」

なんていう報道があったりして、奇跡の生還などと言われたりしてマスコミを騒がせた。ところが今は「携帯に電池は残っていたか。なぜGPSを持ってなかったか」という装備の不備ばかりがクローズアップされてつまらない。

山に行くということがすなわち連絡を絶つという価値を持っていた。行方不明になることが冒険の価値であり、登山の価値であった。

それを携帯電話は見事に壊してくれたのだ。

 

もっとも、今は下山後に写真を送っては山友を羨ましがらせる(若しくは羨ましがらせられる)ツールとして活躍しているのだが。

 

②100均商品

東京に来て思うのはホームレスの持ち物が多いということだ。通勤時に通る線路下の歩道で驚いたことがある。ペットボトルから正体不明のガラクタまで軽トラ一杯分あった。

ほどなく撤去されたようだが、他のところに行っても持ち物が多い人がいる。

 

物を増やす元凶は数あれど、安くて便利がウリの100均、こと100円均一ショップがあげられる。

これは非常に革命的な発明で、今や中国でも人気なのだという。大型のものはややチャチという傾向はあるものの、どれも意外と精巧にできている。

私も自転車の鍵を15年以上使っているが、今のところ自転車は無事である。

 

しかし、100円だとナメてかかるので簡単に物が増える。

部屋を簡単に広くはできないのに物が増えると居住スペースが減る。どうしようもなくって捨てられる。回りまわってホームレスの手元にということだと思う。

今の我が家はドデーンとリビングに自転車が鎮座していて、邪魔だと言われているが、100均の罠にかからないためには必要だと言い訳している。

 

内田百閒は「金がなくなると、家の中が掃いたようになくなる」と書いていた。

ところが今は金がなくても物が増える。金と物の多さは比例しない。

それとともに物を手に入れるワクワク感が減ったと感じるのは私だけだろうか。

 

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10年ぶりに家にやって来たテレビ

③ニュース

これだけでは何のことかわからないだろう。

電車、スマートフォン、駅の構内、エレベーター。どこでもかしこでも画面があって、やたらにニュースが流れている。あれが時に煩わしい。

中学生の時、長野オリンピックがあって、みんな今日の種目の結果を気にしていた。中には授業中にイアホンを使ってラジオを聴く奴が現れ、結果がメモで回りてなことをやっていた。

当時は情報に価値があったし、手に入れようと思わなければ入らなかった。

それが今は「犬も歩けば」で情報がジャカジャカ入る。

 

我が家に最近テレビが入ったが、2週間あまりの間にテレビ番組を1つ、DVDで映画1つしか見ていない。

それでも生活に何の支障も来さないのに、なんで情報を入れなければならないのかと感じたりする。「情報化社会」と言われて久しいが、情報を遮断して頭をスッキリする時間も必要ではないだろうか。

 

リコーのカメラのキャッチコピーで「退屈なのは世の中か、自分か。」というのがあった。なかなか秀逸なキャッチである。

世の中が便利になっても人間はそれほど進化しない。面白いことは究極的には自分の中にしかないのかもしれない。