今年はあまり山に行っていない。1月八ヶ岳に1泊2日、2月大菩薩嶺、3月雁ヶ原摺山へ日帰り。以上。
これ以上、山から遠ざかると身体の野生要素が払底してしまって、二度と岩場を登ったり川の渡渉したりできなくなりそうで怖い。
映画"INTO THE WILD"を見た。
大学を卒業したてのある若者が消息を絶った。彼の本名はクリス・マッカンドレ。彼は所持金のすべてを寄付すると、家族の前から忽然と姿を消し、北へ向かう。目的地はアラスカ。エリート人生を突然捨てた青年は荒野で生きることを心に決めていた。
原案はジョン・クラカワーのノンフィクション作品で、邦題は『荒野へ』で、実話が基になっている。私は原案の本を読んでいたので、これをどうやって映画にしたのか気になっていた。ストーリーとしては青年が無銭旅行をしながらアラスカへ行き、現地で餓死する。
本では、結末(餓死したこと)から話が始まり、それを作者が追跡する形を取っているが、映画は大学卒業とアラスカの場面を交互に切り替えながら進行し、最期の場面に収斂される。
グランドキャニオンでの激流下りや貨物列車の無銭乗車は原案になかったものの、いかにも金のない若者の冒険という感じがするが、少し映画のためのアクションシーンという気もする。
まあ、地味に歩いたりヒッチハイクするばかりでは画にはならないのだろう。
それはさておき、本でもテーマとなっているのは「なぜ彼は荒野に向かったのか」だ。
物質社会の否定。文明の否定。既存価値の否定etc.
映画の中で、"society"に対する嫌悪を口にしている。簡単に言ってしまえば彼は「反社会」だった。しかし、彼は社会を転覆する革命家になるわけでなく荒野に向かい、自給自足の生活を始めようとする。
なぜアラスカの荒野で自給自足の生活をすることが「反社会」なのかはわかりにくい。しかし、登山やらのアウトドアアクティビティを行っているとわかるような気がする。
登山道のないところ歩くことはルール違反とされる一方で、道を逸れた瞬間に訪れる解放感がある。自分でルートを選び、危険を回避し、合理的なラインを見つける。道を逸れただけで、自由と若干の恐怖が訪れ、踏み込んだ足下が崩れやしないか、掴んだ岩が剥がれないかにも神経を研ぎ澄ませるようになる。
しかし、まあ好き好んでやっているものの、わざわざ危険な行為をして遭難でもすれば、家族から叱られ、会社からも歓迎されずという具合になるのは必至。社会的には無価値なことに情熱を注いでいるわけで、コミュニティのために献身的に貢献すべしという社会の方向性に反している。
社会の要請が「他人のために生きよ」ということならば、徹底的に自分のために生きるのには一人になるしかない。アレキサンダー・スーパートランプ(クリス・マッカンドレの変名)は社会に背を向けるために、革命家ではなく一人になることで、反社会を貫こうとしたようだ。