クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

偏差値と登山者の自己矛盾

『岳人』の特集記事が服部文祥となっていたので久しぶりに買ってみた。

『サバイバル家族』を読んで、個人的にはさらなる服部さんブームである。

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服部さんと私には接点も共通点も大してない。ただ、受験勉強の末、ギリギリで公立大学に滑りこんだあたりは同じだ。浪人したのも共通している。

高校時代に死ぬほど(と書くのも大げさか)勉強し、なぜ好きでもない勉強をしなければならないのかと悩み、それでも学歴によって救われている部分があるという意味ではシンパシーを感じる。このあたり、都会が嫌いと言いながら都会の恩恵にどっぷりつかり、日本が嫌いと言いながら日本にいるおかげで飢えずに済んでいるのと同じ矛盾を抱えている。

みんな、というか全人類が程度の差さえあれども(時代が違えばとか、地域が違えばとかという意味で)共通に抱えている悩みと言えるかもしれない。

 

オンリーワンを目指せと言いつつ教科ごとの得意不得意を無くせと言い、とにかく合計得点を良くすることに腐心する。そして偏差値を基準にできる子とできない子を判断する。

いやだいやだと言いつつも相対化された指標というのはわかりやすい。偏差値が50を割ると平均以下かと落ち込むし、60を超えるとまずまず嬉しい。偏差値と人格は関係ないと言いつつも偏差値が良くて人格がよければなお良いし、偏差値も人格も悪ければ最悪。

成績も容姿も性格も所詮は相対化した方がわかりやすい。理不尽だとかいいながらもわかりやすいから相対化した指標として偏差値を信じてしまう。オンリーワンにすがるほど自信に満ち溢れた人はそうはいないのだ。

大人とはすべて矛盾だらけである。

 

特集「服部文祥」の冒頭を角幡唯介さんが書いている。

角幡さんはかつて宮城公博『外道クライマー』の解説で「登山の原罪」というものを語っていた。登山という行為そのものに反社会性がある。命を危険にさらす登山自体が安全と平和を基調とする社会に逆らっているというものだ。「安全登山」という交通標語みたいな言葉は体よく取り繕っているに過ぎない。

登山者そのものが社会人として生きることと矛盾している。しかし、社会人を捨ててマウンテンマンのように生きるとなるとそもそも登山そのものができない。

社会の矛盾を取り繕わずに向き合っていることが「服部文祥」という人が服部文祥たる所以なのかもしれない。