クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

遊びと自由の人~野田知佑さん訃報に寄せて

野田知佑さんが亡くなった。

野田さんの名前を知ったのは雑誌『BE-PAL』の連載「のんびり行こうぜ」。最初は「昔はよかった」という懐古主義的な嘆きがあまり好きにはなれなかった。

しかし、その後『日本の川を旅する』、『のんびり行こうぜ』、『ガリバーが行く』と古本屋で見つけるたびに買って読み、どんどん魅かれていった。

1980年代以前、日本には豊かな自然があり、それだけで満たされる人々がいた。それが失われたことを嘆くのは当然だと気づいたのだ。

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野田さんが大学時代にレガッタ練習をしたという隅田川

今から5,6年ほど前、私は精神的に最もきつい時期にあった。そこから乗り切れたのは野田さんのおかげである。

これほど遊びと自由を肯定した日本人はいない。

日本人は勤勉だと言われる。その勤勉さこそが戦後の経済成長を支え、「一億総中流社会」という社会主義国の理想を資本主義経済の中で実現した。

しかし、その勤勉さは同時に自由を認めない雰囲気を生み、経済成長の失速と共に若い世代に重しのようにのしかかった。

気づけば、遊ぶことを否定し、自由を否定して手に入れた豊かさがあっという間に手のうちから零れ落ちる時代となっていた。

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野田さんは一頃鹿児島に住んでいた(写真は開聞岳

私は野田さんの『旅へ』という青年期が最も好きだ。

自由に生きることを志し、世間とうまく折り合いを付けられない苦悩を、野田さんは高度経済成長期に経験している。その後の日本の若者が味わう苦悩を何十年も前に体験し、そのことが野田流の人生観として後進たちに大きな影響を与えたのではないだろうか。

 

4年ほど前、相方が野田さんの始めた「川の学校」にスタッフとして参加した。

「川の学校」ではビールを飲むかテントにいるかで、あまり活発に動き回る感じではなかったそうだ。ただ、もうかなり足も衰えて、ストックをつかないと歩けないくらいだったが、カヌーの上ではパドルを自在に操り矍鑠とした雰囲気だったという。

夜、相方が参加者の子どもと話していた。川の学校に参加するのは、親がアウトドア好きで、頭のいい子が多い。そして頭はよいがゆえに、学校の先生に従い、社会に盲従することに疑問を覚え、苦悩している。

相方が子どもに野田さんの本の一節を紹介した。それは私の貸した『旅へ』の中で野田さんが自由に対する葛藤を吐露した箇所だった。

すると今まで眠っていたようだった野田さんが突然目覚め、「そうなんだよ!」とその子に声を掛けたという。

遊びと自由と人生の葛藤を見事に体現した人である。私が会いたかった人が一人旅立っていった。