毎日、神社の前を通って駅に行く。
たまに朝も薄暗い時間に柏手を打ち、頭を下げる参拝者を見かけることがある。
今年は初詣も少なかったから、神様も聞く願いが少なかっただろうし、毎朝柏手を打てば叶えてくれるだろう(そんなこと書く私の願いは叶えないだろうな)。
丸谷才一の本を読んでいたら、ギリシャ神話の神々の話が出てきた。ギリシャの神様というのはまあ嘘はつくし、喧嘩するし、愛欲にまみれるし。なんというかアウトローだ。
日本の神様もそのあたりはよく似ていて、野趣に溢れている。
しかし、見比べると気になるのが日本の八百万の神様の立ち位置というのはちょっと他国と異なる気がする。
少し乱暴な理屈を書いてみる。
天照大神の子孫が神武天皇であり、今の天皇家の高祖ということになる。天皇家は神の子孫となるわけだが、同時に源氏や平氏も天皇家の末裔である。藤原家は少し微妙だけど、天皇家とのつながりが密接な関係であることには変わりない。
戦国武士の大半は源平か藤原氏のどれかの末裔を名乗っているから、日本人の大半は天皇家の末裔かその関係ということになる。
と主張したいわけではない。
ずいぶんと神様と人間の境目が曖昧なのだ。
ギリシャ神話の神、キリスト教、イスラム教、その他いろいろな宗教があり、いろいろな神様がいるが、基本は不死だ。不死こそ神たる所以とも言える。
ところが『古事記』では冒頭から伊邪那美命が焼け死んで黄泉の国に行ってしまう。その後の物語を読み進めると、だんだん神様だか人間だかわからなくなってしまう。
不死が特権でない日本の神様は死ぬと遺骸から再び新たな神々を生み出す。天照大神も伊邪那岐命が片目を洗った時に生まれた。
また、天照大神を天岩戸から表に出したことを祝って宴を催した際、食の女神オオゲツヒメを須佐之男命が殺してしまう。これは須佐之男命の無知によることなのだが、オオゲツヒメはただ殺されたわけでなく遺骸からは蚕、稲、粟、小豆、麦、大豆が生まれたとされる。
死して次の生命に生まれ変わるのは仏教の輪廻といった思想というより、自然界の摂理を表しているように思える。日本の(と書くと日本は単一民族ではないという意見もあろうけど)神々は自然の一部であり、自然を決して超越しない存在のようだ。
我々ガ死ンデ死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル
個人ハカリノ姿 グルグルマワル
松濤明『風雪のビバーク』
人もまた自然の一部である。