北岳でのテント泊で新田次郎『小説に書けなかった自伝』を読んでいた。
新田次郎と言えば山岳小説。山岳小説言えば新田次郎という図式が成り立つ。しかしながら、新田次郎は山好きながら、登山家でも熱心な登山者ですらなかったようだ。
そんな人物だからこそ、山と下界の生臭い話が書けたのだろう。この本でも書いてあるのだが、山にも街にも嫌な奴は一定数いる。ピュアな山屋を描かないところが新田次郎の山岳小説家たる所以かもしれない。
そんな新田次郎と山岳小説について書いてみたい。
①新田次郎『縦走路』
物語はいきなり「女流登山家に美人なし」という都市伝説というか山伝説を破る美人が現れるというところから始まる。女性には実に失礼極まりない話なのだが、4人の男女の山と恋愛について描いている。
登山にいろいろな下界のごたごたを持ち込むとロクなことにならない。そのごたごたをうまく小説として持ち込んだのが新田次郎のように思える。
北岳胸壁攻撃(すごい名称)を最後に山の美人はスッと姿を消してしまう。
新田次郎の山岳小説と言えばこれ。
上記の『自伝』によれば物語に登場する嫌な人間は複数のモデルを1人に集約したらしい。読んだ当時、あまりに漫画みたいな悪役が嫌だったものだが、それを聞いて納得である。
新田次郎の死後、空いた「山岳小説家の席」に座らないかと持ち掛けられて書いたのがこの小説らしい。
『孤高の人』の加藤文太郎が清廉な山男なのに対して、この小説の主人公・羽生丈二はエゴの人である。作者本人が登山家・森田勝をモデルにしたと書いているが、むしろノンフィクション作家・佐瀬稔が『狼は帰らず』に描いた森田勝をモデルにしたと言った方がいいかもしれない。
山男は決して聖人君子ではないという意味で、新田次郎より生臭い人間像を描いている。
山岳小説はどうも大ヒットしにくい。
登山という環境が理解しにくいのと、先入観が人それぞれだからだろう。映画も遭難物が多いのは「命がかかっている」というわかりやすいテーマがほしいのかもしれない。
しかし、ジャンルとしていろいろ実験できるところじゃないかと思う。とりあえず3つだけ書いたのだが、他にも紹介していきたい。