クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

お受験と大学の実力

正月、初詣に行った実家近くの神社に絵馬が飾ってあった。

個人情報云々とうるさい中で、絵馬は数少ないプライベートな願いが公表されている媒体である。正月に行くと多いのはやはり合格祈願。「東大一直線」と漫画のタイトル通りのものや「京大合格」というシンプルなもの、「〇〇高校(地元の名門校)合格」という絵馬が吊るされている。

こう言ってはなんだが、かつては「どこ?それ」という学校も掲げられていたのが、今回見ると名門校ばかりで少々驚いた。

私が高校生くらいの頃、なんちゃって進学校である母校の教師はしゃかりきに「大学は国公立大学に限る」と言っていた。なぜなら少子化が進めば定員を維持する大学の価値は下がる。私立大学は急に規模縮小ができないので、いずれ全入にせざるを得ないというのだ。

この指摘は正しい。今や私立大学は学生数を維持するために生徒の争奪戦を繰り広げている。

わが父は学歴至上主義で、正月に箱根駅伝を見ながら

「〇〇大学なあ。前の会社で社長やってた人、ここの大学やったけど、頭悪かったなあ」

と言う。別に個人の能力が大学の実力を反映しているわけではないのだが、父にはそう見えるようだ。そういう親がいれば子どもも「ある程度の大学に入らなければ」となるのである。

 

思うに大学にしろ高校にしろ、入試が学校の価値を決めてしまうところに問題がある。

つまり、入試の時点で模試の高得点者が集まるかどうかで学校のランクが決まってしまい、入学してからの逆転がない。本来、学校は入学後に行う教育の成果で価値を評価されるべきだ。成果をPRすることなく、「入れてやる」という上から目線のシステムで成り立っていた日本の入試というシステムは少子化によって行き詰まりを見せている。

お受験が生徒の価値を決めているのでなく、学校が入試で自らの価値を縛ってしまうという陥穽に陥っているのだ。

 

絵馬に合格祈願をする生徒は「これで人生が決まる」という意気込みがあるだろう。私もそうだった。

しかし、学校が人生を決めるわけではないし、学校も責任を持ってくれない。お受験を頑張るのも一定の意義があるし、入学してから頑張るのにも意義はある。

要はどう有意義に生きていくかが問題なのだ。