クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

これから必要なのは読解力

相方の友人が来て食事会をした。

いわゆるホームパーティーという奴だが、気の置けない仲なので、私が豚バラでソーキを作り、相方がぶり大根を作って出すという、言ってしまえばいつもと変わらない食事である。彼女は独り暮らしで家庭料理を食べていないというから美味しく食べてもらってよかった。

 

食事をしながらよもやま話をする。

最近、彼女は知り合いの娘さんにオンラインで英語を教えているそうだ。私立の中学校に通っているが、かなり危うい語学力なので、ちょっと教えてほしいと頼まれたらしい。

ところが、教え始めてわかったのが英語どころか日本語もかなり危ういということだ。話す言葉に主語を付けないので、発言のひとつひとつの「誰が」が抜けていて会話が成立しない。周囲の友達は良くできた子ばかりらしく、文脈で察したり、優しく尋ねたりしてこれまでやってこれたらしい。

英語では、日本語以上に主語が明確にしないと通じない。英語の学習をするうちに「おいおい、日本語も危ういぞ」と気づくようになったという。

しかし、この話は教育業界にいる相方も、そして普通に会社員をしている私にも思い当たる。

私も「A社は〇〇町と協定を結び、『〇〇町脱炭素ビジョン』を掲げ、その実現のための取組みを進めております。」みたいな要約文を見せられて「『〇〇町脱炭素ビジョン』を掲げておるのは〇〇町だろうが。主語がごちゃごちゃになっとるぞ」と注意したばかりなのだ。

相方は小学6年生と要約の練習をしていて苦戦中。

 

数学者の藤原正彦さんは「勉強は一に国語、二に国語。三、四はなくて、五に国語」と言っている。

私はどの言語を主に置いても構わないと思っているが、読解力を鍛えなくてはならないという点では同意したい。自分の頭で考えるには情報をインプットするための読解力が必要となる。生成AIが登場して、作文を代行してくれようとも、自分の頭に情報を入れるのは自分しかいない。

なんだか、食事会は日本の教育を憂う会になってしまった。これもわれわれが年を食ったということだろうか。