クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

ダイバーシティの本質とは?

相方が時々、アメリカのバラエティー番組"America's Got Talent"を見ている。YouTubeで英語学習らしきことができるのはありがたい。

この番組は素人スターの発掘というありがちな内容ながら、世界中から多くの挑戦者がやって来る人気企画のようだ。審査員は4人か5人で、そのうち2人が×を出すと失格。準々決勝、準決勝、決勝と回を重ねてチャンピオンが決まる。

 

私なんかは番組そのものより審査員の構成とか、カメラアングルなんかが気になってしまう。

例えば審査員。5人いると男女比は2人と3人に分かれ、黒人と白人も必ず混じるようになる。人種性別に対する配慮が必ず存在するのだ。

おそらく人種が偏ると、「あの番組は人種差別を行う」などといわれのない噂を立てられかねないのだろう。

実際、他の子役スターの発掘番組では興奮した親が「私たちが〇〇系移民だから差別するのね!」などと憚ることなく言い募っていた。

「おいおい、子どもがオーディションに落ちたからって落ち着けよ」というところだが、本当に差別と判断されればどんな社会的制裁を受けるかわかったものではない。

恐ろしい社会だ。

翻って日本はどうかというと差別はないわけではない。アメリカのように過敏ではないのは、そもそも同質の人間が集まることを前提としているからだ。

ただ、それはダイバーシティへの耐性がないだけで、今後人種入り混じる社会になったらどうなるやらわからない。

個人的体験から言うと、ダイバーシティは幼い頃の経験が大きいと思う。私は7歳の時にいきなりアメリカに放り込まれた。唐突に日本人のみの世界からマイノリティになってしまったのだ。

おまけに黒髪、金髪、青い目、黒い目、灰色の目と入り混じっているので、子どもの目からは何がなんやらわからない。とにかくいろんな人がいるんだなあと感心するばかりなのだ。

こうなるとダイバーシティなんていう言葉はそもそも存在しない。もともとこの世界の人はてんでばらばら色々なのだから。

ダイバーシティの本質をわかるには、こういうごちゃごちゃのところに先入観なく放り込むのが一番のように思える。