クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

金持ちの質素倹約と民族性

相方の91歳になる祖父が夜に電話をかけてきた。

先日送ったレモンのシロップ漬けが届いたのでお礼とのこと。お礼は建前として孫と話したかったようだ。

年は91歳だが頭はしっかりしている。特に感心するのはお金についての把握。戦後の満洲からの引上げ時に1万円だけを持って日本での生活が始まったという。

ケチなら私も負けてはいない。外出時には水筒に水を入れて持ち歩き、コンビニは可能な限り利用しない。独り暮らしの時は1度も風呂を沸かさなかった。

そうは言っても飢えに苦しんだ経験もないので、筋金入りの祖父とは格が違う。きっとこの祖父は最後まで散財はできないだろう。

質素倹約は日本の美徳だ。それでいくと世界の大国であるアメリカと中国は太っ腹な国と言える。

アメリカのクリスマスプレゼントは、友人同士でもかなりの物を交換し合う。日本人なら恐縮するか、互いに大変だから抑制するように訴えるだろう。

相方の話だと、中国人の団体が料亭で食事をすると大量に注文をして大量に残す。日本人なら「もったいない」というところだが、これが文化の違いというもの。ケチな食事はしないのである。

 

今から12年前、東日本大震災の際に、杉良太郎が被災地で炊き出しをやったことについて賛否があった。他人のボランティアを否定する必要があるのかと思うが、売名行為だという意見もあったという。

妙なもので、日本では金持ちが太っ腹になることに否定的だ。

爪に火を点す生活で財を築くことを肯定しつつ、湯水の如く使うのは他人事であっても許せない。江戸時代には奢侈禁止令が出され、大坂の淀屋辰五郎は財産没収にまで遭った。

平時において金持ちにまで贅沢禁止を命じるのは、世界史の中でかなり珍しい。

こうなると日本で質素倹約が骨の髄まで染みつくのがわかる。金の有無にかかわらず贅沢できない身体になっているのだ。

 

本屋の経済コーナーを眺めると「日本が豊かになる」あるいは「貧しくなった」というタイトルが百花繚乱だ。

どんなタイトルであれ、豊かになろうという意志は感じられる。

ただ、質素倹約の民族性までは簡単に変えられない。当分は金があろうとなかろうと質素倹約を旨としていくことだろう。