クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

架空の地図を持つこと

先日、図書館で借りた本を山積みにしてパラパラ読んでいたら、面白いエピソードがあった。

ヨーロッパ某国の軍隊が山中で道に迷った。吹雪の中、このまま部隊は全滅するというところで1人が地図を持っていることがわかる。湧き上がるチーム。意気揚々と下山を開始し、無事麓にたどり着くことができた。

しかし、使った地図は全く別の山域のものだったことに、彼らは後から気づいた。

面白いと思ったにもかかわらず、かなりうろ覚え、というかどこの話かや、その本でどう取り上げたのかも忘れてしまっているが、いろいろ意味で示唆的だ。

まず、地図があれば下山できるという意識ができていたということ。そして、その地図が正確でなくても構わないということ。

しかしながら、このエピソードで重要なことはそれだけではない。

地図があれば近い未来が見える。明日生きて麓に近づき、どこかでテントを立てて眠る自分が想像できる。それは確約された未来ではない。ただ、なんとなく無事生きている自分をイメージできる。

人はいつか死ぬとわかっていても、明日死ぬかもと思いながら生き続けるのはいかにも苦しい。この話では「地図」が明日を生きる象徴的な存在として絶望の中で突如登場した。だから希望を持って下山を開始することができたのだ。

 

よくリーダーはビジョンを示さなくてはならないとされる。

ところが一口に言っても難しい。そこで抽象的で誰も反論できないうやむやなスローガンばかりが立てられ、なんとなくみんな従うという構造が生まれる。

しかし、強力なリーダーシップを発揮する人を見ると、ある種の「地図」を持っているケースが多い。それは正しいかわからない、だが妙にリアルな未来を描いた「地図」だったりする。彼らが持っているのはあくまで「架空の地図」なのだ。

日本人はリーダーシップが弱いと言われる。ただ、それは正確を期した地図を描こうとし過ぎているだけかもしれない。最初から未来を予測した地図なんて誰ももっていないのだから。